秋が顔を覗かせたのには気が付かないふりをして、まだ行かないでくれと言わんばかりに夏の尻尾を掴んだままでいた。
 いいなぁ。つぐみがそう呟いたのは一ヶ月ほど前のことだ。まだ春のうちに収録を終えた「シャイニング事務所の夏休み」という特番がやっと放送を迎えた日、俺の家でソファに体育座りをしていたつぐみがテレビの液晶を食い入るように見つめながら零した言葉を俺は聞き逃さなかった。

 「それでグランピング? 翔ってほんと甲斐甲斐しいよね」という脳内の音也の言葉にはうるせー、と返す。音也みたいに女の子の方から寄ってくるような男ならまだしも、俺はそうじゃない。アイドルやっててもバラエティメインなのも、そういう振舞いを求められているのも自分が一番理解してる。だから必死なんだろ、と今度は自身に言い聞かせるように呟いた。

「つぐみ、眠いんだろ」
「んー……うん……」

 眠そうに微睡み始めたつぐみの頬を人差し指で撫でる。冷たかったシーツが二人の体温と溶け合って丁度心地よくなってくる頃合だった。ベランダとはいえ日中、よく陽にあたったことも原因だろう。事実、俺の体にもほどよい疲れが残っている。

「でもなんだか眠るのもったいない」

 少し身動ぎをして、つぐみが俺の胸あたりに額を近付けた。俺とつぐみには身長差がほとんどないから、悲しいかなこうやって恋人らしいことができるのも寝転んでいるとき限定だった。安心したようにふにゃふにゃと顔をほころばせるつぐみの髪に手を添えれば、小さく欠伸を噛み殺した声が聞こえる。

「ねーむれー、ねーむれー」
「ふふ、何それ」
「俺様特製子守唄」
「翔君の子守唄って逆に元気でそうだね」
「どういう意味だよ」

 贅沢してるってこと。つぐみが息を漏らすようにして笑うその声が逆に冗談を言っているように聞こえる。ぎゅうと鼻をつまんでやったら、んん、と嫌そうに顰められるその顔が幼くておもしろい。しばらくそうしてじゃれていたら、ふと俺の手を離れたつぐみが頭をこてんと俺の肩に乗せる。

「ずっと聞いていたいな、翔君の歌」

 なんの番組も映さないテレビに俺達の姿が反射している。部屋の広さも相まって世界にふたり取り残されているみたいだ。

 寂しい思いをさせているのはわかっていた。思い出作りと称さなければ夏なんてすぐに過ぎ去ってしまう。夏だけじゃない、ついこの間花見でもしようと言っていたのにすぐこれだ。
 つつぐみの世界と俺の世界が回る速度が異なるようになってきたのはいつからだろう。
 学生の頃はそうじゃなかった。帰り道にコンビニに寄って買ったアイスをベンチに座って食べたり。梅雨明け、砂利道に出来た水たまりに虹が浮かんでいるのを見つけたり。わざわざ海へ行ったり山へ行ったりしなくても、季節の尻尾は簡単に掴むことができたはずだ。
 肩を流れる髪に指を差し入れる。前に会った時はもう少し短く切り揃えられていたはずだった。もう随分伸びちゃったな。

「明日の朝はトマトサラダ作ってやるよ。ドレッシングから手作りのやつ」
「ほんと? じゃあそれを楽しみにして寝ようかな」

 ベランダ菜園のプチトマトはどうやらつぐみのお気に入りになったようだ。水くらいでろくに肥料もやっていなかったのに随分と甘かったらしい。きっと枯れないようにしないと。つぐみと俺の今年の少ない夏の思い出だ。
 歯磨きをしてくる、とソファから立ち上がったつぐみの背を視線だけで追いかける。随分物分りが良くなった。いや、違うな。物分り良くさせてしまったという方が正しい。

「つぐみ」
「ん? どうしたの」
「あー、や、その」
「?」
「……秋になったら栗拾いでも行くか」

 大人になろうとするつぐみと比べれば俺はまだまだ子供だった。もっと我儘言って欲しい。頼ってほしい。ひとりで大人になろうとしなくていい。ステージでキザな言葉を言えるようなアイドルだったなら、この中のどれかひとつでも告げられただろうか。
 本来の台詞を無理くり違う言葉に変換した俺を、振り返ったつぐみが怪訝そうに見つめる。

「栗? わざわざ拾いに行くの?」
「わざわざ拾いに行くからいいんだろ」
「えー……うーん、翔君が栗ご飯作ってくれるなら……」

 その言葉に思わず吹き出してしまった。そうだ、アウトドアが苦手だったもんな、お前。
「我儘な奴」


 俺達には、我慢しなくちゃならないことが山ほどあって、そのせいで寂しい思いをさせてしまっていることも、我慢させていることも、痛いほどわかっていた。
 なのに、俺はつぐみを手放してやれない。それどころか次の季節の約束なんてものをして、つぐみを縛っている。
 窓の外は月が丸く、秋の香りが鼻をくすぐった。この分だときっとすぐに栗拾いには絶好の季節になるだろう。
 つぐみはきっと、早起きの時点でちょっと嫌そうな顔をする。寝坊しないように起こしてやるんだ。そんな未来の想像をして、ようやく俺はみっともなく掴んでいた夏に別れを告げた。本当は思い出を作りたいのも我儘なのもぜんぶ、俺のほうだ。

20211025 / ささやきはミルク色
(bouquet再録)