いつもより早めに目覚めてしまったのは、どこか自分の誕生日を楽しみにしていたからかもしれない。つぐみは待ち受け画面を埋める通知の数々にそれを認め、寝ぼけまなこを擦りながらもそのひとつひとつをタップしていく。
 誕生日おめでとう、これからもよろしく。装飾のない年賀状のような文章は、つぐみがマネージャーを務めている野球部のエースからだった。昨日の部活でミルクティーを奢ってもらったというのに、改めてメッセージを送ってくれるあたり、彼の人柄の良さを感じさせる。
 対照的に、今度はスタンプだらけのおめでとうの言葉がつぐみの目に入った。送り主は幼馴染からだ。寮生活に加え、去年の甲子園出場から一躍世間に名を轟かせることとなった彼は以前電話をした際にはいつもの数倍調子に乗っていた。けれど立場や年齢が変わっても変わらないそのフランクさに、つぐみがどこか安堵するのも事実だった。
 ふたりと、それから他にメッセージをくれた友人たちにそれぞれありがとうとお礼を送ってから、最後にもうひとりいる幼馴染からのメッセージを開いた。それは色気ひとつない、ぶっきらぼうな誘いだった。

――ランシュー買いに行きてえんだけど
 ………………だから何? そう返信したいのをつぐみはグッと堪えて、もう一度頭の中だけで送られてきた言葉を反芻する。こんな言い方をする男はつぐみの周りにひとりしかいない。誰でもない、御幸一也だ。
 メッセージが送られて来たのは昨夜の二十三時前。昨日のつぐみは部活の後、誕生日祝いだとコンビニでジュースやらお菓子を奢られたから帰宅が遅かった。そのせいかご飯やお風呂を済ませると即刻寝理についてしまい、つい気付くのが遅れてしまったというわけだ。
 別に、期待はしてなかったけど。
 誕生日の「た」の字もない所に落胆と、なぜか少し安心した気持ちを覚えながら「いいよ」と返事をすべく指を滑らせる。そもそも、誕生日を祝い合う関係性ならこうして今幼馴染みになんて甘んじていないのだ。何度この日を迎えても、結局今年も何も変わらない関係に溜息をつきたいような、ほっとするような複雑な気持ちで送信ボタンを押すと、普段連絡不精なくせに意外にも即刻既読マークがつく。きっと朝の自主練の合間に携帯を見ていたんだろう。提案された昼過ぎの待ち合わせ時刻に了承し、つぐみはようやくベッドから立ち上がった。予定の時間までには充分すぎるほど時間があることはわかっていたけれど、準備には遅すぎることはない。洗面台の鏡の前に立ったつぐみは、誰も聞いていないのに自身の誕生日だから、とあえて強調し特別な日用のトリートメントオイルを用意した。
 つぐみが誕生日を迎えるのは、これで十七度目だ。

 待ち合わせ場所は東京の真ん中、若者が集う街の駅だ。といってもふたりがそこで何かをするのではなく、そのふたつ隣の駅にあるつぐみの叔父が営むスポーツ用品店が今回の目的だった。
 片道五九〇円。幼い頃は徒歩五分も掛からなかったのに、今のふたりはただ顔を合わせるだけにそのくらいはかかる。

「一人で行けばいいのに」

 構内のコンビニの前に立っていた御幸が久しぶり、と右手をあげるのと同時に開口一番、つぐみが告げた。

「そんな訳には行かねえだろ」

 乗り継ぎの電車に乗るべく歩き出しながら御幸は苦笑いした。数ヶ月ぶりにもかかわらず、挨拶を交わせばふたりの間にいつも通りの空気が流れる。
 いまや当たり前にその関係に幼馴染という名をつけているが、つぐみと御幸が知り合うに至った経緯こそ、そのスポーツ用品店だった。共働きの両親にどうしても都合がつかず預けられたある日、叔父は幼いつぐみを半ば強制的に連れて試合を観に行った。そこに御幸がいたのだ。つぐみの叔父は御幸とつぐみが同い年、それに家も近いと知った時からまるで御幸をあたかも自分の甥のように扱った。その頃から叔父は、一也に何か野球の才能を感じていたのかもしれない、とつぐみは今になって思う。そしてその恩恵を受け、御幸は叔父の店から格安で野球用品を購入できた。

「おじさん、一也ひとりでも充分喜ぶと思うけど」
「かわいい姪っ子にも会いてえたろ」
「お正月に会ったしなあ……」

 つぐみは丁寧に巻いた髪を人差し指に巻きつける。
 御幸の性格上、会話の中のかわいい、は決して今のつぐみに向けられたものではないことはわかっている。しかし、油断したら唇の端が綻びそうになってしまって困った。

 ふたりの予想通り、叔父は御幸と姪であるつぐみを大喜びで向かい入れた。たまたま客が少なかったとはいえ、つきっきりで御幸の足にピッタリ合うランニングシューズを選んでくれたほどだ。
 自分より何センチも大きな足は、普段部活で見慣れていた。けれど御幸のそれをまじまじと見つめるのにはなんとなく気恥ずかしさを覚えてしまう。つぐみは、叔父と御幸の会話を耳にしつつ小さな店内を見て回った。程なくして、自身のファン第一号を名乗る叔父から解放された御幸がぼうっとテニスボールを見つめていたつぐみの肩に触れる。目当てのランニングシューズは手に入り、今日のミッションは遂行された訳だがふたりはまだ落ち合って一時間弱しか経っていなかった。

「お前この後用事あんの?」
「いや、ないけど……、でもせっかくここまで来たから、買い物でもして帰ろうかなって考えてたとこ。お腹も空いたし」
「じゃあ着いてくわ」
「はあ?」

 どうせ一也のことだ。早速手に入れたシューズを足に馴染ませるべく、一目散に寮へと戻るに違いない。てっきりそう思い込んでいたつぐみは、御幸の誘いとも取れる言葉に驚いて大袈裟に目を瞬かせた。

「……なんだよ」
「いや、珍しいこともあるもんだなって」
「着いて来てもらった手前、すぐ帰すのも気が引けるだろ」
「一也にしては人間らしいこと言うようになったじゃん。何? 倉持くんのおかげ?」
「お前俺のことなんだと思ってんの……。てかなんでそこで倉持」
「仲良いんでしょ?」
「よくねーよ」

 つつぐみは青道高校で御幸の次に知っている名前を告げたにしかないのだが、御幸はわかりやすく眉を顰める。

「で、どこ行くの」

 もう少しその関係性を弄んでやってもよかったのだが、強引にも元の話題に戻されてしまった。つぐみは顎に手をやって軽く思案する。せっかく人と出かけているのだ。それも、誰でもない一也と。いつものウインドウショッピングに付き合わせるにはもったいない気がする。数分悩んで、じゃあとつぐみが提案したのは映画館だった。


「よく来んの?」

 電車で移動し、繁華街で迷うことなく映画館へと足を進めたつぐみに御幸が尋ねる。
「いや? ここ、近くにバッティングセンターがあるんだよね。そこに行ったことはあるけど」
 ふうんと返す御幸の声がワントーン下がった。つぐみはそれに気付いてはいたが、きっと、行きつけのバッティングセンターなんて腐るほどあるだろう一也には興味のない話題なのだ、と結論づけ、その時一緒に行ったソフトボール部の友人がホームラン賞を取ったという話をするのはやめにした。

「……で、何観るんだよ」

 薄暗い映画館の中に並ぶ、上演中の映画の看板を前に悩むつぐみにずいと御幸が問いかけた。

「えーっと……あっ野球モノやってる。漫画原作のやつだって。一也読んだことある?」
「観たいのあったんじゃねえのかよ。てかそれショージョマンガだろ。ないに決まってるから」
「また少女漫画をバカにする。あれだけ野球部に人数いるんだから、絶対一人は読んでる人いるはずだよ。今度貸してあげようか、一也が人の心を取り戻すためにも」
「うるせー、どうせマネと部員の話に決まってんだろ、こういうのは」
「カッちゃん甲子園♡  みたいな? まあでも、マネージャーと野球部員の話ってあるあるだよね」
「まあな」

 つぐみの言葉に、御幸が相槌を打った。すんなりと肯定するのが珍しく、つぐみは看板そっちのけで顔を背け、その顔をまじまじと見つめる。

「……一也にもあったりしてね」
「ねーよ。つかそんな暇がねえわ」

 カカカ、と喉だけで御幸が笑った。かと思えば、「お前はどうなわけ?」と妙に真剣な声で質問を返された。
 目が合う。眼鏡の奥の目ははっきりと見えているのに、なぜかその表情の真意が読み取れない。

「もちろん、左に同じです」

 肩を下げる素振りをしながら、つぐみが同調する。青春は野球で手一杯だった。
 あとそれタッちゃんだろ、と御幸が突っ込んだのはふたりの間の空気が和らいだすぐあとのことだ。
 
 結局、これにしようとつぐみが選んだのは一番目立つ所に看板が掲示されていたアクション映画だった。忙しさ故、頻繁に映画館へ足を運ぶことのないつぐみにとって久しぶりとなる映画は想定より遥かに面白かった。隣に座った御幸も表情こそ大きく変えてはいなかったが存外楽しめたようだ。明るさを取り戻した館内で、面白かったねと話しかけるとうん、という素直な頷きが返される。

「続編決定してるみたいだね」
「何年後だろうな」
「大学生になったくらいかなー」

 また一緒に見に行こう、と言う未来の約束は互いにしなかった。御幸に今日のお礼だと言われ奢ってもらったジュースは氷が溶け随分薄くなってしまっていたけれど、つぐみは最後まで飲み干す。

 ふたりが映画館を出ると既に陽が落ちて、繁華街の中では明らかに学生だとわかる若者の姿はまばらになっていた。休日は往々にして光のように過ぎてゆくものだ。帰りを促さずとも、足並みは揃って駅へと向かう。
「青道のキャプテンと薬師のマネージャーがふたりで歩いてるなんて知られたら何て言われるだろうね」
 冗談めかして、途切れた会話の合間につぐみが呟いた。今日は誰ともすれ違わなかったが、レジャースポットだけに休日はこの街に訪れる知り合いも多い。学校が別れふたりの関係性を知る人間が少なくなった今、あらぬ誤解をうけることはないとは言えなかった。

「鳴が知ったらうるさいだろうなあ」

 ただの幼馴染。背丈が変わらない頃から、一緒にいるのが息をするように当たり前だった。そこに何の意味もないことは互いに嫌という程思い知っている。
「お前こそ、薬師の連中に知られたらうるせえんじゃねえの」
 やけに御幸が嫌味っぽく言う。その理由は考えたところで都合よく解釈してしまうだけだ。勝手に期待をしてそれが外れた時に受けるダメージだって、つぐみはよく知っていた。

「なんで?」
「なんでって……」
「うち恋愛禁止じゃないけど」

 もういーよ。御幸は乱雑に後頭部を掻いて話題をシャットダウンさせた。

 繁華街から離れたふたりは、乗り換えの駅で降りた。スマホで調べたところによると御幸のそれより地元方面へゆく電車のほうが五分早く発車するらしかった。

「あーあ、久しぶりに一也の作ったチャーハンが食べたかったな」

 本来なら同じ電車に乗ってもいいはずだ。けれどそうはいかない。御幸には御幸の今の生活があるし、つぐみも然り。
 勿論、連休があれば御幸は地元に帰って来る。しかし、必ず会えるわけじゃない。今更、わざわざ会おうと約束する関係性でもない。野球少年として道具を至極大切に扱う御幸に、今日のようなイベントはそうそう起こらないし、休みがたまたま合うなんてことも珍しい。

「自分で作っても、一也のみたいにパラパラにならないんだよね」

 寂しくはない。自分の家が通学範囲の学校に進学したことに後悔はないし、鳴の誘いを蹴った御幸の選択も、聞いた時には「らしいなあ」と思わず笑ってしまったくらいだ。もし同じ学校に行っていたら、なんて妄想もしない。だが、時々恋しくはなるのが本音だった。

「……次帰省した時な」

 なんて脆い絆なんだろう。つぐみは思う。幼馴染なんか損なだけだ。
 一緒にいるのが当然だったのに、いつの間にか離れていく。でも、簡単には捨てさせてくれない。脆いくせに、しつこいのだ。その枠を羨ましがる女の子は何人だっていたが、つぐみだってなんのしがらみもない彼女達を羨ましく思ったりもした。
 だから、御幸の返事に、つぐみは思わず「えっ」と声に出してしまった。

「……なんか、やっぱり今日一也変なんだけど」
「やっぱりってなんだよ」
「だって映画についてきたり、そもそも急に誘ってきたり……、チャーハンだって、いいよって言うし。普段なら絶対ヤダとかめんどくさいとか言うでしょ」

 つぐみが御幸の今日の行いを指折り数える。やっぱり今朝の胸騒ぎは当たっていた。普段、直接言ったほうが早いとめったに動くことのないメッセージアプリが使われたのも、待ち合わせ場所に早く着いていたのも、映画館に着いてきてくれたのも、ジュースとポップコーンを奢ってくれたのも、次の約束まがいの言葉を投げかけるのも。全部、つぐみの知っている御幸じゃなかった。

「あのなあ……。お前今日誕生日だろ」

 まるで、知らない男の子みたいだ。いつの間にそんなことを言えるようになったんだろう。

「知ってたの?」

 言葉が震える。完全に不意をつかれた。まさか、覚えているとは思わなかった。というより、知っているとすら思っていなかった。今日の御幸には驚かされてばかりだ。

「さっき思い出したんだよ」

 それが嘘であることはもはやわかりきっていた。
 美容院で購入した大切に使っているトリートメントオイルも、友人に似合うと告げられてからお気に入りに昇格したスカートを履いてきたのも、無駄じゃなかった。喜びが熱となってつぐみの胸の奥から滲み出す。

「ふうん……、だから気を遣ってくれてたってこと?」

 負けてばかりじゃいられない。からかうようにつぐみが改めて顔を覗き込む。唇を尖らせながら、御幸はそれを受け入れた。

「悪いかよ」
「ううん、次はもうちょっとわかりやすくしてくれることを期待してるね」
「黙ってお礼だけ言えねーのかお前は」

 互いに思わせぶりな言動をして、だけど決定的な言葉が出ない。そんなことはこれまでに何度だってあった。認めてしまいたいのにそれができないのは、長年の付き合いがそうさせるのか、それともライバル校同士という立場がそうさせるのだろうか。来年の夏、どちらかは必ず泣くことになる。その選択に後悔はないけれど、きっとそれが終わるまで、この生温い距離が縮まることはないだろう。
 だが、もしかするとあのアクション映画の新作が公開される頃には、いや高校を卒業する頃には、互いに素直になれているのかもしれない。
 御幸の見え隠れする心の内につぐみの鼓動がはやる。反対方向に進む電車に乗っても、恋しさを打ち消すほどの胸の熱を収えることは不可能だった。

20211025/ 予感は赤い糸で結んで
(bouquet再録)