まさか、夢にも思わなかった。野球の名門、青道高校。ここで、この先も忘れられない出会いをするなんて。

「マネージャー?」
「そう! 今日見学に行くつもり」

 幸子の制服のリボンが、その胸元で期待に揺れていた。放課後、新入生のための部活動紹介を終えた私達は体育館を後にする。どの部活に見学に行くのかすら迷っていた私は、その早い決断にただただ驚いた。どうやら幸子は幼い頃から野球が好きで受験期からマネージャーになると決めていたらしい。

「迷ってるなら一緒に行く? 見学」

 これからの円滑な高校生活のために、一応何かしら部活動には入っていた方がいいんだろう。ぼんやりとそう考えていた私は、幸子が行くのならと軽い気持ちで頷いた。思えばそれが、何もかもの始まりだった。

「すごい人……」

 そこは、想像を越えた場所だった。
 まず、専用グラウンドという存在がその範疇を軽く飛び越えていた。私立なのだからあってもおかしくはないといえばそうかもしれないけれど、ひとつの部活に割り当てられるにはあまりに規模が大きい。しかもご丁寧に見学者用のベンチまで備わっている。平日にもかかわらず老若男女が座って応援の檄を飛ばしているのも、見たことの無い光景だった。

「見学?」

 誰かに声を掛けるタイミングを図っている幸子の隣であっけにとられていると、ふいに後ろから話しかけられた。胸まである艶やかな黒髪、目元の涼しげな美人。それが後々お世話になる、貴子先輩だった。幸子がはい、と目の前の先輩に負けないくらい凛とした声で返事をする。

「そう。よかったら中に入って」

 グラウンドの端に案内され、促されるまま着いて行く。ネット裏にある扉は経年劣化で錆び付いて、ギィと小さく軋んだ音を立てた。

「二年のマネージャーは私ひとりなの。三年生の先輩もいるけど、受験の説明会で今は外していて……だから主に今日は見学だけでごめんなさいね」
「えっ、ひとりでこの人数を⁉︎」
「そう。結構大変だけど、やりがいはあるのよ」
「ひえー……」

 きっとすごい業務量なんだろう。何も知らない私でも、そのくらいは想像できてゾッとした。それは顔にも出ていたらしく、貴子先輩が「驚いた?」と苦笑いする。
すでにこの場所にはざっと数えても野球チームがいくつかできそうなくらい部員がいた。ユニフォームの洗濯だとか、備品の用意だとか、考えつく仕事だけでもかなり大変そうだ。
 名門、古豪。その単語の意味をまざまざと見せつけられて、足がすくむ。野球部のためだけにできた専用グラウンド。そこにいる部員の数。それを真っ直ぐな見つめるマネージャー。平日なのに応援に来るギャラリー。野球のやの字も知らない私が気軽に来ていい場所ではない。場違いだと突きつけられた気分だった。

「あ、御幸君だ」
「御幸くん?」

 申し訳ないけれど、私は私に合った部活を探そう。心の中でそう決めていると、ふと幸子がグラウンドの中心に指をさす。目を凝らしたその先にはクラスメイトがいた。御幸くん。下の名前は覚えていないけれど、背が高かった、ような……。そうか、野球部だったんだ。

「あら、御幸君のこと知ってるの?」
「あ、はい同じクラスで……」
「へえ。クラスでもあんな感じ?」
「あんなってどんな……」

 言いかけて、口を噤んだ。グラウンドにいる御幸くんはクラスで見るどんな姿とも違っていた。
 前後逆にしたキャップを得意げに被り、先輩であろう人物と軽々しく喋りながらウォーミングアップであろうキャッチボールを行っている。周囲には同じようにしている部員の人たちが何人もいるのに、なぜかそこだけいやに眩しい。多少見知った人物だからだろうか。それとも、クラスで見せる寡黙な姿とボールを軽快そうに操る姿が一致しないからだろうか。

「音が違うの、わかる?」
「音?」

 貴子先輩の言葉に、耳を澄ませてみる。確かに御幸くんがボールをキャッチする時だけ、気持ちの良い音がする……ような、しないような。そもそも野球について明るくない素人にわかるものなのだろうか? 私がいまいち不明そうな顔をしている隣で幸子がなるほどと頷いていた。

「御幸くんはスカウト組ですよね」
「スカウト……」

 スカウトといえば芸能人、くらいの認識しかなかったけれど、強豪校ともなれば普通のことらしい。同じ年に生まれて、同じだけ年数を重ねて同じ高校に入学したはずなのに、全く別の人生を歩んでいる。言葉を失ってただただグラウンドにいる御幸くんを眺めていると貴子先輩が口を開いた。

「やってみれば想像ほど大変じゃないのよ」

 優しげな微笑みを口元に浮かべながら、続ける。

「よかったら、考えてみてね。むしろ、きっとこの野球部の一員であることを誇りに思うくらいだから」

 その言葉が、自分に向けられているように思ったのはどうしてだろう。隣の幸子はもう入る気満々で話を聞いていたからかもしれない。野球って、そんなに面白いの? 入学前から入部を決めるほど? スカウトされて入学するほど? 誇りに思うほど? 私にもそんな日がくるのだろうか。

 結局、いくつか別の部活も見学したものの、私が野球部のグラウンドに足を踏み入れることになるまでそう時間はかからなかった。あの迫力には、どの部活も敵わなかったのだ。とはいえ幸子と一緒に職員室で片岡先生に入部届を提出した瞬間は緊張して思わず音を立てて喉を下した。今じゃ監督が本当は優しい人だと当たり前のように認識しているけれど、なんといってもあの風貌だ。当時は私たちよりひとつ上の学年の授業を担当していたし、接点すらなかったのだから恐れるのも無理はない……と、思う。マネージャー、それもルールすら覚束無い人間なんて必要ないと一刀両断されたらどうしようと震えたものだったが、快く迎え入れ、晴れて、私も青道高校野球部の一員となった。親にも驚かれてしまったけれど。

 その一方で、同じように入部した幸子、唯、私の中で私が一番使い物にならないのは痛いほどよくわかっていた。これまでの人生で野球に触れてこなかったせいで、スコアブックの書き方なんてちんぷんかんぷんだ。というわけで、暇さえあれば幸子が弟からもらったという初心者向けのルールブックに目を通す毎日が始まった。けれど、ここにいれば文字とイラストのみで説明されるルールを、実際に目にすることができる。恵まれた環境に感謝しながら、頼まれる仕事の傍らでみんなの動きを覗き見していた。
 まだ春もはじめだというのに、御幸くんはすっかりと先輩に馴染んでしまっている。彼のポジションには既にレギュラーである先輩がいるにもかかわらず、ひとつも遠慮するところがない。それどころか、その状況を楽しんでいるようにすら見えた。

「……っわ、!」

 その頃は必死で、どこに行くにもルールブックを持ち運んでいたように思う。本を読みながら廊下を歩いていたある日、前方不注意で人にぶつかった。謝罪の言葉を口にしながら落とした本を拾うためにしゃがみこむと、同じように手を差し伸べてくれた人と目が合う。御幸くんだった。
 あ、と思うないなや、御幸くんの視線が本に注がれているのがわかった。デカデカと書かれた「これでわかる! 野球のルール」。初心者丸出しだ。気恥しくなって急いで手に取り、もう一度「ごめん!」と謝りつつも足早にその場を去った。

 最悪だったのはその後だ。
 練習が遅くなると予め決まっていた日だったから、差し入れのためのおにぎりのお米を炊いたり、お茶の葉の用意をする必要があった。昼休みに学校を抜け出して、グラウンドにほど近く建てられている寮の食堂に顔を出しに行った時のことである。戸棚を開いてティーバッグの用意をしていると食堂の扉が開く音がした。先輩かな、と顔を上げるとそこには御幸くんがいた。

「なんで」

 思わず漏れた一言に、御幸くんもポカンとした顔で返す。

「なんでって……俺ここに住んでるし」
「あ、そっか」
「電気ついてたから誰かいるのかと思って。強盗だったらやばいだろ」

 御幸くんはどうやら忘れ物を取りに寮に戻って来ていたらしい。やっぱり、部活の時とは違ってぼんやりとしている。けど一体、本当に強盗だったらどうしたんだろう。見たところ通報するにも携帯も持ってなさそうだし。

「強盗だったら戦った?」
「いや、無駄に怪我したくないし。逃げる」
「に、逃げ……」

 堂々とした逃走宣言に言葉を失う。それって見に来た意味はあるのだろうか。

「篠村さんは何してんの」
「え? お茶の準備」
「ふーん……」

 いきなり名前を呼ばれて驚いた。そもそも、私の名前を覚えていたことも意外だった。クラスメイトでもあり、部活も一緒となれば当たり前かもしれないけれど、なんとなく、御幸くんの頭の中には野球以外の物事がなさそうに見えたからだ。

「あのさ」

 突然の来訪者には驚いたものの、時間は有限だ。会話もそこそこに作業に戻ると、御幸くんはまだ何か、話し足りないことがあるようで未だ食堂を後にしようとしない。不思議に思って顔を上げると、とんでもない一言を放たれてしまう。

「篠村さんて野球、好きじゃないでしょ」
「え……、」

 野球、好きじゃないでしょ。その言葉のインパクトに目をパチパチとまたたかせる。一方、発した本人はさも今日の天気の話でもするような涼やかな顔をしていた。

「世話好き?」
「いや、別にそういうわけでもないけど……」
「ふうん。ルールも知らないのに、マネさんするって変わってんな」

 そこでようやく今朝の休み時間にぶつかった時のことを言っているのだとわかった。カァ、と背中が熱気を帯びる。確かに、青道高校野球部といえば昔は甲子園の常連だ。そこに野球のなんたるかどころかやの字も知らない人間が、それもマネージャーとして入部するなんて冷やかしだと思われても仕方ない。実際、反論するほど立派な理由とかこれからの展望があるわけでもなかった。

「まー別に、どうでもいいんだけど」

 何て返すのが正解なのかまったくわからなくて、ティーバッグの箱を握りしめていたら御幸くんはふい、と視線を逸らした。そこには気まずそうな素振りなどは全くなく、ただ本当に尋ねただけで、かつすぐに興味を失ったように見えた。

「じゃ、頑張って」

 そして、ポカンとする私を置いて片手に電子辞書らしきものを持ったまま颯爽と食堂を後にする。
 ど、どうでもいい……。今にして思えばどうでもよくなかった方が驚くのだけれど、その時の私はまるで頭を鈍器のようなもので殴られたかのような衝撃を受けて、しばらくその場から動けなかった。十六年間生きてきてそんな風に面と向かって言われたことなんてない。同時に、御幸一也という人間は本当に野球以外のことに興味がないのだと思った。名前を覚えてたのも、きっと珍しいことこの上ないのだろう。

 ――思えば、まともに御幸と話したのはこの日が初めてだった。
 苦手だ、と思った。円滑な人間関係を築くことが人生の優先事項だった私にとって、この男とはこの先ずっと分かり合えないだろう、と思うには充分すぎるエピソードだ。でもそれは、図星をつかれた恥ずかしさの裏返しだ。二度とあんな言葉は口にさせない。いつか御幸くんも驚くような、完璧なマネージャーになってみせる。そう決意してもう三年が経つ。



「――一応、オープンキャンパス行ってみようかなってところはいくつか絞ってるけど」
「えっ」
「そんなに驚かないでよ」

 唯の発言に思わず声が漏れ、運んでいたドリンクボトルを落としそうになった。季節が初夏にかかった最近は、中身を充分冷やしておいてもボトルの表面がすぐ汗をかく。落としていたら泥まみれの大惨事になっていただろう。

「だ、だって! 具体的には……どういう……」
「栄養士の資格が取れるところを中心に行くつもり」
「え、栄養士……」

 唯が選んだ進路は、言われてみればよく気のつく彼女にぴったりだったけれど、三年間――正確に言えば丸二年――一緒に過ごしてきて、そんな夢を持っているだなんて知らなかった。

「さ、幸子は⁉︎ 幸子は私の仲間だよね!?」
「一緒にしないでよ。私も教育系で考えてるけど」
「う、嘘⁉︎」
「失礼な」

 ここ青道高校は確かに野球の名門ではあるけれど、同時に文武両道を謳っている。当然、文武の「文」の部分、進路についてのフォローも手厚い。こうして私達が三年になるまでに何度かそういった希望は聞かれてきたが、いわゆる受験生になるとこれまでとはまるっきり真剣さの度合いが変わった。「進路希望調査用紙」とレタリングされたプリント、更には来たる夏休みに大学や専門学校など、自分の希望する学校のオープンキャンパスに行くように、との先生の発言にすっかり狼狽えた私は同じように焦っているであろうと唯と幸子に「なんて書く~?」だなんてヘラヘラ笑って尋ねたのだけれど。

「ちゃ、ちゃんと考えてる……」
「ちゃんと考えないで今まで授業のコースどうやって選んでたのよ」
「できそうなやつから……」
「こら」
「進路もそうやって決めるつもり?」
「大体、それじゃ夏休みの課題どうするわけ? オープンキャンパス行かなきゃいけないでしょ」

 心配そうに苦笑いする唯と呆れた表情の幸子がなんだか随分遠い人のように見える。
 この歳になればある程度自分の身の丈なんかは痛感しているもので、将来のなりたい姿となれる姿をこれまでの成績と照らし合わせながら進学するのか、就職するのかを現実的な範囲で考えることはできる。私も、ぼんやりと進学かなあ、なんて考えてはいたものの、それどころじゃなかったのだ。

「夏は……、だって夏は甲子園があるから」

 私の返答が唯と幸子の眉間の皺を深くさせる。A4用紙に書き記す遠い未来より、足音の近く次の季節のほうが私にはよっぽど重要なのだ。そしてそれは、二人とも同じだと思っていた。

「確かにそうだけど」

 子供に言い聞かせるような声で唯がため息まじりに言う。

「全国で一番長い夏にしなきゃだし!」

 誤魔化すように拳を突き上げるポーズをしながら言ったけれど、二人は一切笑ってはくれなかった。

「それでも夏は終わるでしょ」
「手厳しい……」
「そりゃ、寂しいけどね」

 話しながら、ベンチにドリンクボトルを並べる。グラウンドではウォームアップのランニングが始められていて、キャプテンになって最初は気恥ずかしそうだった御幸の声も今や堂々たる様子だ。部員のみんなが後に続く。

(みんなは、……御幸はどうするのかな)

 夏はもうすぐそこまで来ていた。それが終わったらどうなるかなんて、想像もつかなかった。野球部は、御幸は、私は、どんな顔をしてどんな気持ちでその季節を迎えるのだろう。御幸は、あの日みたいになんだって、どうでもいいと言うのだろうか。
 部長室はよく冷房が効いていて、夜になるとまだ少し肌寒いくらいだった。気まずさに視線を逸らす私と礼ちゃんの間にある机の上には、私の名前だけが書かれた真っ白な進路希望調査用紙が置かれている。提出締め切りを過ぎても出されることのなかったそれは風が吹けば簡単に飛んでいきそうなくらい頼りない。

「少しでも興味のあることでいいのよ」

 礼ちゃんが困ったように眉を下げる。おそらく私のぼんやりとした態度に剛を煮やした担任に頼まれたのだろう。このままだと片岡監督にも呼び出されてしまうかもしれない。その恐ろしい想像にひとり勝手に身震いした。たまたま席を外してくれていてよかった。

「……あの、ちょっとだけ興味あるのはあるんだけど……」

 意を決して、部屋を支配した沈黙を破る。礼ちゃんがあら、と意外そうな表情を作った。

「といっても自分で考えたわけじゃないんだけど」
「大丈夫よ。少しでも興味のあることでいいの」

 気恥ずかしさに口籠もる私を、礼ちゃんが優しく促す。まだ、幸子や唯みたいに覚悟が決まっていない、私の将来。

「あの……スポーツの医療というか、理学療法士とか、どうかなーって」

 小さく呟いたそれに、意外にも礼ちゃんはいいじゃない! と声を弾ませた。

「大きく出過ぎたかな~とは自分でも思ってるんだけど」
「そんなことないわ。もう、それならそうと早く言ってくれればよかったのに。前から興味があったの?」
「いや、人から勧められて……」
「御幸君?」
 礼ちゃんの口から出た名前に思わず目を見開く。
「ちっ、違! なんで御幸なんですか……!」
「だってあなた達仲がいいじゃない。御幸君も随分篠村さんには心を開いているように見えるし……、ちなみに部内恋愛は禁止じゃないわよ」

 私の憤慨も何のその、礼ちゃんはウインクすらしてみせる。こういう話をしていると普段の理路整然な野球部の副部長としての姿や教師の姿は影を潜め、親しみやすいお姉さんのようだ。

「だから前から違うって言っ……」
「すみませーん、高嶋センセーいますか~」

 本気なのか揶揄われているのかわからない礼ちゃんの言葉を否定しようとした、その時だった。ノックの音と同時に開いた部長室の扉に目をやると、タイミングがいいのか悪いのか御幸本人がそこにいた。

「あれ? 篠村と礼ちゃんだけ?」
「あら、どうしたの御幸君」
「借りてたスコアブック返しとこうと思って。はいこれ」

 御幸は堂々とした様子で部長室に足を踏み入れ、私と礼ちゃんの間に入る。よりにもよってあんな話をしていただけに、どんな顔をしていいのかわからなくて視線を逸らした。

「御幸君、用はそれだけ?」
「うん。そうだけど」
「そう。篠村さん。あなたも遅いから帰ったほうがいいわ。外も暗くなってしまうし……、希望に合うところ、いくつかリストアップしておくわね」

 含みのある言葉に顔を上げると、礼ちゃんがメガネの奥でこっそり私にだけに向けてウインクを飛ばした。だ、だから勘違いなんだって! 残念ながら心の中の抗議は誰にも届かず、促されるまま御幸と並び立つ形で部長室を後にする。

「篠村今から帰り?」
「あ、えーと……うん」
「じゃあ送ってくわ。駅だろ?」
「えっいいよ、一人で大丈夫」
「いーって。ついでだし篠村送ってから走って帰りゃ軽い運動にはなるし。今戻ると沢村達がうるせえんだよな」

 困ったような苦笑いを前にこれ以上拒否はできなかった。互いの利害が一致したために仕方なく、といった形でじゃあ、と御幸の申し出を受け入れる。演技でもしないと、動揺する胸の内が隠せない。

 最初に言葉を交わした時の印象は最悪だったけれど、意外にもこの三年の間、私と御幸の関係は良好と言えた。というのも私が抱いた印象とは反対に、御幸はあの野球好きじゃないでしょ発言から私には気を遣わなくていいと判断したのか何なのか、結果的によく話しかけてくるようになった。とはいえ必要時に、他の女子と比べれば、の条件付きだけど。
 クラスメイト、部活の仲間、キャプテンとマネージャー。あと……友達? 私と御幸を纏う言葉は沢山ある。どれも事実、なのにどれも本当に欲しい言葉じゃない気がする。

「玲ちゃんと何の話してたの」
「え……いや進路の話とか……」
「とかってなんだよ」

 学校から、とりわけグラウンドから駅までの道のりはあぜ道のような場所も多く、街頭もまばらだ。人通りも少ないおかげで御幸の低くて小さな笑い声がよく耳に響く。

「ふーん、もう秋のこと考えてんだ?」
「え!? あ、いやそういうつもりじゃなくて」
「わかってるって」

 課題だもんな、と御幸は続ける。万年教室の机でスコアブックを眺めている男のくせに、課題を覚えているのが意外で大袈裟に驚いてしまった。

「あのさ……御幸は、……御幸は、何か考えてるの、将来」

 うまく話題を繋げたつもりが、この会話は間違ったと口にした瞬間思った。
 きっとプロになる。それだけの実力を持ったひとだ。今は目の前にいて、言葉を交わしているけれど、次の春、私と御幸は全然違う場所にいる。わかっていたのに、口にするといやにそれを実感した。

「ごめん。無理に聞きたいわけじゃないんだけど」

 御幸が何か答える前に、質問を撤回する。答えによっては、日常が非日常になるのを突きつけられてしまう。当たり前だったものが当たり前じゃなくなって、今の私が大切にしていることは全て過ぎ去った過去になるのを、まだ受け止められる自信がなかった。
 寂しい。唯や幸子とした会話を思い出す。

「何深刻な顔してんの。今は甲子園しか見えてねーよ、誰かさんと違って」
「……誰かさんってなに」
「そりゃあ今隣にいる、誰かさんですけど?」

 重くなってしまった空気を吹き飛ばすみたいに、御幸はケタケタと楽しそうに笑った。途端に空気が和らいで、ほっとした私は勢いのまま隣にあった御幸の左腕に軽く拳を当てた。

「私も甲子園しか見えてないし! ていうか、そのおかげで礼ちゃんセンセーに呼び出されてたわけで」
「お前あれ呼び出しだったのかよ」
「そうだよ。進路希望の紙、ずっと提出してなかったんだよね」
「締め切り二週間前とかじゃなかったっけ? それはやべえだろ」
「そのくらい甲子園しか考えてなかったんだってば! だってやらなきゃいけないこといっぱいあるんだよ。あ、そうだ会計報告見てくれた?」
「あ、見てない」
「嘘、困る!」

 礼ちゃんと話した内容とか、こうして帰りを送ってもらってることとか、心拍数の上がることばっかりで変な空気になってしまったけれど、やっぱり御幸とこうやってくだらない話をしている時がいちばん楽しい。

「……私、御幸とは仲良くなれないだろうなって思ったんだよね、入部したての頃」
「ひでー」
「ひどいのは御幸でしょ。初めて御幸が私に言ったこと、覚えてるから」
「初めて? 何だっけ」
「そう言うと思った」

でも、御幸がいたからここまでやってこれた。と口にするのは夏が終わってからでもいいだろう。

「でも俺も覚えてることある。篠村のおにぎりがすげーデカかったのとか」
「なっ……」
「あれは衝撃だったなー」

 今度は御幸は揶揄うような口調で言った。本気じゃなさそうだけど、そう言われると心配になる。そんなにわかりやすいものだろうか。

「そんな下手だった?」
「篠村の作ったやつがすぐわかるくらいには」
「うっ……」
「今でもわかるけどな」
「これでも一応、春乃には褒められるんだけど……」

 御幸だけじゃなく他の部員からもそう思われていたなら恥ずかしすぎる。過去、マネージャーのみんなで作ったおにぎりの山と自分のそれを記憶の中から呼び起こしていると、御幸がぴたりと足を止めた。どうしたんだろう? 理由がわからなくて、私も同じようにその場に立ち止まる。

「……篠村さあ」
「何?」
「野球、好きになった?」

 ――覚えてたんだ。驚きに目が見開き、言葉を失う。忘れたって言ったくせに。
 確かに、最初から野球に興味があったかと言われれば嘘になる。だけど御幸から好きじゃないんでしょと言われたのが悔しくて躍起になってマネージャー業に打ちこんできた。そうやって目の前のことをひとつひとつ試行錯誤しながらこなしていくうちに、いつの間にか自分の生活に野球が、部活が染み付いていた。

「うん。……」

 頷いて、ゆっくりと歩き出す。

「……好きだよ」

 憧れている。たぶん、あの日野球に触れた時から。あの背中に触れてみたくて、その世界に足を踏み入れたくて、何が見えているのか、知ってみたくて。私にとって、野球はそのまま御幸だった。
 駅の明かりが見えはじめた。電車に乗って帰る私と、寮に戻る御幸。次の春が来ればもっと遠くなる。
 きっとこのまま私は知らない人を好きになって、付き合って、結婚したりするんだろう。そして、御幸とはずっとこのまま時が止まるのだろう。
 好きだと答えたのは、その言葉の本当の気持ちは、気付かれないといい。この胸のざわめきもいつか過去にして、思い出の中にしまいこむ。





 篠村のことは、変なやつだと思っていた。マネージャー、なんて好き好んで他人の世話をしようとするんだから。例えば、元々興味があったけど女子野球部がないからとか、運動部に入りたかったけど怪我がとか、そういう理由でやむを得なくならわかる。けど、そうじゃないなら野球はプレイするほうがよっぽど楽しいに決まってる。それに新設野球部ならまだしも、ここは青道高校だ。たとえプレイヤーじゃないとしても、野球のルールすら知らない人間がそう楽に過ごせる場所ではない。

「――……御幸だって好きでしょ」

 篠村の返事に俺が言葉を失っていると、篠村は気恥ずかしそうな様子を誤魔化すように言葉を重ねた。

「……ま、好きじゃなきゃやってねーよな」

 篠村の三年間は、側から見ていてももう「好きじゃない」なんて言えない。なのに意地の悪い質問を改めてしたのは、夏を前に柄にもなく感傷的になってしまったからかもしれない。迷いなく、頷いて欲しかった。特に、誰でもない篠村には。

「……甲子園のことしか考えてないんじゃなかったの?」

 う。ナベの返答に思わず口籠もる。さっきまで俺の来訪を珍しいね、なんて笑っていてくれていたのに。
 他のクラスを訪れるのは苦手だ。無駄に集まる視線とか、目当ての相手を探してる合間の、気まずい感じとか。すぐ出てきてくれたおかげで助かった。連れ立って廊下に出て、壁に背中を預ける。
 進路のことだけど。ナベに投げかけた質問はこうだ。俺の言葉を聞いたナベは大きな目を丸くし、前述のセリフを口にしたのだ。

「や、俺のことじゃなくて」

 ナベは今度こそ不思議そうな顔をする。一体、何て切り出すべきか。唸りながら乱雑に後頭部を掻く。野球は別として、駆け引きはからきしだ。

「…………篠村さんのこと?」

 煮え切らない俺の態度にもしかして、という様子でナベが俺の顔を覗き込んだ。言い当てられて、その観察眼に脱帽する。
 高校三年にもなれば、否応無しに進路という圧力に襲われる。例外なく俺もそうだけれど、まずは目の前の夏の大会のことしか考えないことに決めた。野球を続けるにしろ、父親の仕事のことにしろ。
 だからこそ雑音には惑わされたくなかった。惑わされる気もなかった。なのに篠村の口から進路という単語が出てきたことに気を取られている。少なからず同じような野球バカだと思っていた篠村が進路について悩んでいると――夏が終わった後のことを考えている、と知って少なからず動揺していた。

「確かに、悩んでる様子だったけど」

 篠村とナベは仲がいい。多分、波長が合うんだろう。ふたりとも視野が広いし物腰も柔らかい。話してる姿も見かける。だから、他の女マネを除いて何か知っているならナベだと思ったのだ。結局、単刀直入には聞けなかったけれど。

「渡辺くんはどうするの~って聞かれて。篠村さん、随分迷ってるみたいだったからスポーツ医療の方は? って答えたっけな……」
「リハビリとかってことか」
「向いてそうだよね。よく周り見てるし」
「お節介とも言うけどな」
「でも、意外だな。御幸は聞いてなかったんだ?」
「俺と篠村だとそんな話しないんだよ。大抵部活の話」

 手をひらひらと振るように否定する。

「……本当に付き合ってないの?」
「は?」

 意外な言葉に、今度は俺が面食らう番だった。付き合ってる? 誰と誰が。

「御幸はてっきり、篠村さんのこと好きなんだと思ってたから」

 ごめん、野暮だった。俺の表情から悟ったのかナベが謝る。

「余計なこと言ったね」
「いや、いーよ」

 特に不快になったわけでもない。俺と篠村がそんな関係じゃないのは、事実だし。話題を流そうとすると、そういう雰囲気の察しがいいナベが意外にも「でも、」と続けた。

「御幸と篠村さんがあんまりおんなじこと言うから」
「え?」
「今は夏の事しか考えられないって。ふたりとも、似てるよね」




 沢村と降谷、それから川上の熱烈なアプローチを交わし寮に戻ってきたところで、食堂に電気がついているのが見えた。メシは既に終わってる時間だし、誰かミーティングでもしてるのか、と外の扉の窓から覗き込むと篠村が一人、机に向かっていた。

「何してんの」

 中に入り向かいの椅子を引いて話しかける。集中していたのか、そこまでしてやっと篠村は顔を上げた。机の上には裁縫箱と思わしきものが広げられていて、その手には針と作りかけのフェルトのマスコットが握られている。毎年、大きな大会の前にマネージャー陣から配られるそれは、形から推測するに今回はユニフォームがモチーフのようだ。

「お守り作り。間に合わなさそうで」
「あー、今年部員多いもんな」
「野球部活躍のおかげでね」

 俺の言葉に答えながらも、篠村は手を緩めない。こんな時間まで残っていると言うことは、他の仕事も溜まっていたのだろう。夏の大会を前に、俺たち部員だけでは手が回らないところまで、少ない人数でやってくれている。最後の夏だ。やれる事はやりきりたいというのは同じ思いなのだろう。
 しばらく席は立たずに、爪の短く切り揃えられた篠村の指先が規則的に動くのを見つめていた。同じ形のフェルトが、その手によって綺麗に縫い合わされてゆく。うまいもんだな、と思った。

「篠村」
「なに?」
「俺のゼッケン付けて」
「えっ、取れたの⁉︎」

っと見ていたら、視線を奪いたくなった。急な提案に篠村が驚いた様子で目を見開く。

「取れたっつーか、取れかけ? すみっこの方、剥がれかけてんの今思い出した」
「今、言う⁉︎ 私この量のフェルト達を縫わなきゃならないんだけど……」
「いいじゃん、ついでついで」

 笑いながら言うと、篠村が恨めしそうな視線を寄越した。

「……いーよ、じゃあ持ってきなよ」

 少し間があって、観念したようにため息まじりで答える。結局、人の頼みを断れないお人好しなんだよなあ。周りのことよく見てて、人のことばっか気にして、嘘つくのが下手で、だけど時々素直じゃなくて。三年間、そばにいた。いちばん近くで見てきたつもりだ。

「篠村に縫ってもらえたらなんかあやかれそう。ピンチの時とか。たまに頼もしいとこあるし」
「たまにって何」
「おにぎりは下手なのに裁縫は得意なところとか、結局相手の頼み断れないところとか? やっぱ世話好き篠村だけあるわ」
「何それ」
「あれ? 人の世話すんの好きでマネージャーになったんじゃなかったっけ?」
「違うし! やっぱりほんとは覚えてないんじゃん」
「やっぱりって?」
「こっちの話」

 別にいいけど、忘れてても。と、篠村が首をふいと逸らしながら続ける。ユニフォームの袖の形をした部分は最後まで縫えたようで、糸がプチンと小気味よく切られた。

「ていうか、ピンチにならないでよ。見てる方が心臓に悪――……」
「覚えてるよ」

 話しながら、針山に針を戻し次の糸を手に取ろうとした篠村のその手を遮るようにして握る。

「篠村のことは忘れねーよ」

 本当は、これからも隣で見ていたい。でもそれが叶わないことはわかっている。
 あの日、篠村の口から進路なんて単語が出てきた時は焦ったけど、結局、一緒に過ごした三年間をきっかけとして志望先を選んだと知って、ただ嬉しかった。向いている方向が同じなら、例え俺たちの関係性を紡ぐ言葉が少なくなっても糸のように簡単には切れないはずだ。

「顔赤すぎだろ」
「あ、赤くもなるでしょ! いきなり何! 離して」
「やだ」
「やだ⁉︎」
「だって、おもしれー顔してるもん篠村。ずっと見てられる」
「ず、ずっと⁉︎」

 篠村の真剣な眼差しが野球に向けられているのを見るのが好きだった。その視線の先にいたかった。ひたむきな瞳が、野球じゃなくて俺に向けられたならと思いだしたのはいつからだったか、もう思い出せない。
 もがくように指を動かす篠村の手を握り直した。頬を染めたその表情を目に焼き付けるようにじっと見つめる。振り払われないのなら、その理由を都合よく解釈しても許されるだろうか。いつか全て過去になるとしても、今だけはこの熱を共有していたかった。

20211025 / 焦がれた獣の正体
(bouquet再録)