篠村つぐみには、戦闘の才能がなかった。
 訓練は惜しまなかった。仕組みも頭で理解していた。そこそこのレベルの近界民だったら倒すこともできたし、ひと一倍恐怖心があるわけでもない。ただ、才能だらけの人間がいるなかで、つぐみの能力は平均で、それ以上になることも、以下になることもなかった。
 つぐみは自分に才能がないことを入隊当時から理解していた。それでも続けてこられたのは、皮肉にもつぐみに平々凡々を突きつけた人間との関係が思いのほか心地よかったからだ。
 つぐみの脱退前夜、さよならパーティーと称した飲み会が開催されたのもそれを物語っている。
 本当はふたりで過ごしたいんじゃないかと思ったんだけど、と二宮に向かって遠慮がちに告げたのは来馬だった。
「そんなことさせないわ」
 と、加古が腕でつぐみを見せつけるように引き寄せる。

「その代わり焼肉にしようぜって決めたんだよな、なあ堤?」
「そうそう。しばらく飲み会も開いてなかったし」

 太刀川と堤が続ける。
 勝ち誇ったような加古の笑みに苛立ちを覚えた二宮は、今すぐこの場でつぐみと約束を取り付けるかとも思ったが、嬉しそうにはにかみながらその腕に収まっているつぐみを見ているとその怒りが収まるのもまた、事実なのだった。
 大学卒業を前に、各々が忙しさのピークを迎えていた。そうでなくとも各隊でリーダーを務める人材ばかりだ。それでもなんとか集まろうとしたのは、少なからず脱退時、記憶操作措置が取られること――それによってつぐみの記憶が失われること――を全員知っていたからに違いない。

 どことなく、雰囲気が三門に似ている。駅を出た二宮はそう思った。
 卒業と同時にボーダーを脱退したつぐみは、すぐに三門市から引っ越した。「いい街らしいですよ」と、その街からスカウトされてきた水上に聞いた犬飼がわざわざ二宮に報告してきたのも記憶に新しい。
 ようやく落ち着いて来たからよかったらと招待を受け、教えられた引っ越し先の住所をもとに二宮は歩き出す。高い建物がなく遠くに山々の見える街並みは、近界民との戦闘による破壊やそれに関連する事故に備えて建物の高さが規制されている三門によく似ていた。
 歩いていると思わず欠伸が出てしまいそうになるくらい穏やかな川のせせらぎに浮かぶ鳥の親子。また、その周囲に植えられた植樹や色とりどりの花々などはよく手入れされているのか、萎れた様子ひとつ見せず艶やかに緑を蓄えている。ここにいると近界民の侵攻や戦闘が嘘のようだ。どこを見渡しても、侵入禁止のバリケードもなければ、あの無機質で威圧感のあるボーダー本部の存在もなかった。
 川に反射する光の眩しさに、二宮は思わず目を細める。
 この街で、つぐみは暮らしているのか。
 ふと、水面に浮かんでいた鳥が大きく翼を広げた。かと思うと、間髪を容れずにそれを羽ばたかせ、その場から飛び立っていく。特段、二宮は鳥など気にして生きてこなかった。そのせいでそれがなんという種類のものなのか見当もつかなかったけれど、真っ直ぐな軌道がやけに目についた。
 白い翼は二宮の視線などまるで気にした様子もなく、空と混じりじきに見えなくなっていく。



「あれ、二宮くんもう着いたの⁉︎」
「電話した」
「嘘お……」
「嘘をついてどうする」

 数ヶ月ぶりに聞いたインターホン越しのつぐみの声は二宮の耳に落ち着いて聞こえた。とはいえ、ここ数ヶ月電話以外でつぐみの声を聞く機会はなかったのだが。機械を通しての再会の後、騒がしい足音と共に目の前の扉が開かれる。

「ごめん、おまたせ!」
「そんなに足音を立てて、下の人間は苦情を申し出て来ないのか」

 抱きつくような勢いで現れたかと思えば、つぐみはえへへと乱れた前髪を指先でさっと整えて二宮をどうぞと手招きした。
 寂しさ故の涙等は見当たらず、つぐみはただ歓びだけをその顔に浮かべ新生活を始めたばかりの部屋を案内する。元々ボーダーで稼いでいたのに加え、浪費する性格でもなかったぶん初期費用は充分あったらしく、つぐみの部屋は1LDKにしては十分な広さだった。セキュリティも二宮が見るところ申し分ない。
 案内されるがまま、二宮がベッドを背にローテーブルの前に座る。どうぞ、とグラスが眼前に置かれた。底から飲み口に向かって濃い青色がグラデーションのように彩られているそれは、長く付き合っている二宮も初めて見る。しかしせっかくの海のようなグラスは中に入っているジンジャエールと色が混じり合うせいで相性が良くない。それでも、つぐみが言うにはこれは二宮専用らしかった。

「うまくやっているのか」

 よいしょ、と声に出して同じように飲み物を手にし、隣に落ち着いたつぐみは二宮の問いかけに、
「なんだか二宮くん、お父さんみたい」
 と目を瞬かせてその唇に弧を描く。

「お前の近況を気にする奴が多いからだろ」
「嬉しいなあ。加古ちゃんやみんなは元気?」

 二宮が呆れたように「聞く必要があるか?」と答える。

「昨日も連絡が来たよ。みんな、優しいんだから」

 言いながら、つぐみは微笑みを浮かべ頭を横に振った。

 結果として、つぐみは記憶を失わなかった。
 失った記憶に気付いていない、と言ったほうが正しいかもしれない。が兎に角つぐみは、二宮は勿論加古をはじめとしたボーダーの仲間たち、そして過ごした日々の記憶を無くさなかった。もやがかかったように思い出せない所はあれど、あの暖かく眩しい日常がまぎれもなく存在していた、その事実があるだけで充分だった。

「二宮くんも心配してくれた?」

 そして、それは二宮にとっても。
 下から覗き込まれ、二宮は押し黙る。無言は肯定と捉えたつぐみは再度笑って、昨日洗濯したのばかりだという皺ひとつないシーツが広がるベッドの上に手を伸ばした。

「あはは、ありがとう。でも大丈夫だよ。なんとかやってる。それに、この子もいるし」

 ね。二宮に笑いかけるように、ぬいぐるみのシャチがつぐみによって傾けられる。
 新入りの癖にこの部屋いちばんの特等席に鎮座していたのであろうシャチは、その無機質な瞳に二宮を捕えまるで見下すかのごとくつぐみの腕の中に収まっていた。

「そんな模倣品を俺の代わりにするなと言っただろう」

 二宮はシャチの視線を遮るようにその顔を掴み、シーツの海へと乱暴に還す。あっ、と声をあげたつぐみが憐れみと慈しみを含んだ声でシャチの毛並みを忙しく整えるのも忌々しい。

「……なんか、二宮くんがここにいるのって変な感じだね……」

 しみじみと呟くつぐみの声が、ここは三門とは違うのだと感じさせた。

「来馬の言葉を借りれば」
「来馬くん?」

 唐突に出てきた名前に、つぐみがきょとんと首を傾ける。

「お前はもっと寂しがると思っていた」

 ボーダーに所属していた当時のつぐみの部屋は、雑然としていることが多く、任務に学業にと同じような生活を送っているはずの二宮はいつも苦言を呈していた。
 けれど、今日のつぐみの部屋はよく整頓されている。毎日使っているのだろうキッチンに、洗濯されたシーツやおそらく一緒に眠っているのだろうぬいぐるみ。その全てが、つぐみの新生活は上手くいっているのだと告げていた。
 二宮の知らないつぐみの姿が、ここにはあった。

「寂しいよ、寂しいけど……」

 つぐみが躊躇うように口ごもる。二宮は、その表情にあの日、三門を出ることを告げられた時の事を思い出していた。


「篠村さんはすごいね」

 つぐみの脱退前夜、店を出て腕を組んで歩き出した加古とつぐみの背を見ながら数歩遅れて歩いていると、ふいに来馬が呟く。春の足音は既に近付いているというのに夜はまだ寒く、二宮はコートの前ボタンをきっちり上まで止めあげた。

「この中じゃ際立って強くはないだろ」

 二宮が、つぐみと来馬のランクを比較して告げると堤が「二宮、そういう事じゃなくて……」と諭す。

「どういうことだ」
「えっと、寂しそうな顔ひとつ見せないなって。もっと、泣いたりするかと思ったんだけど」

 前を歩くつぐみは、加古になにやら耳打ちされ照れているようだった。距離が離れていても、つぐみの表情はわかりやすい。気持ちを隠すような人間でもなかったし、隠し事が上手いタイプでもなかった。

「あいつ、頑固な戦い方するからな~」

 ふいに、太刀川が背後から来馬と二宮の肩に両腕を回した。随分酔いが回っているのか、酒の匂いがして二宮は顔を顰めその腕を解く。

「柔軟そうに見えて、自分で決めたこと曲げねえタイプ」
「二宮と気が合うわけだ」
「でも、篠村さんは優しいから」

 加古がつぐみの頭を撫でている姿が目に入る。どうせわざと見せつけているに違いないと二宮は眉間の皺を深めながら、そっと視線を外した。落とした視界に、履きなれた革靴だけが映る。
 若いほどトリオンが成長しやすいこと。いずれ、トリオン器官の成長は止まること。止まったら、防衛隊でいるのは難しいこと。けれど、本部の人間にはなれるということ。だが研究は進んでいて、二十歳を過ぎても活動できる隊員は増えているということ。それは全ボーダー隊員が知る事実だった。
 卒業を控え進路について考えた時、トリオン器官の成長が止まった時の事を皆一度は考えたはずだ。考えたうえで、二宮はボーダーにいることを選んで、つぐみは出ていくことを選んだ。

「……あれは、優しいというよりお人好しだ」

 正解はわからない。選んだ道を正解にするしかない。



 三門を出ようと思う。そう告げた時のつぐみの瞳には遠慮と躊躇が多少顔を覗かせていただけで、迷いやそれに似た感情はひとつも浮かんでいなかった。

「二宮くんは、きっとずうっとボーダーにいるでしょう」

 思考を戻した二宮は、つぐみの言葉に耳を傾ける。

「本当は、そばずっと一緒にいたかったけど、向いていないのはわかっていたから。それに、本部に入るには知識もなにもかも足りないし……、でも、二宮くんの隣にはいたいから」

 つぐみは新生活で、唐沢と似た職種を選んだ。経験を積んで、外部からボーダーの力になれるようにと考えているらしい。だったらもっと近い場所でと周囲はそう告げたが、つぐみは頑なにそれを拒んだ。

「ひとりでどれだけ頑張れるか、試してみたいの。……それに、二宮くんが好きにしろって言ってくれたでしょ?」

 寂しい時は、二宮くんだって頑張ってる、そう思うと頑張れるんだ。言いながら、つぐみはまるで何か宝物でも受け取ったかのようにはにかんだ。

 篠村つぐみには、戦闘の才能がなかった。
 特段トリオンに恵まれていたわけでもなかった。勘が働くタイプでもなかった。二宮はそんなつぐみに最初は呆れもしたし辛辣な言葉もかけたが、それでも、つぐみは着いてきた。捨てられた子犬のようだとそのいじらしさを評したのは加古だったか。笑えない冗談だった。
 交際を始めたと聞いた周囲の人間がやたらと理由を尋ねてきたのは、二宮とつぐみが才能も能力も性格も外見も、どれをとってもお似合いとは言い難かったからだろう。それでも、非凡な人間が多数を占め、その上少しでも怠けると蹴落とされていくような世界の中で、つぐみと一緒にいる時はなぜか二宮の心がやわらいだ。
 きっと、だから惹かれたのだ。
 つぐみの平凡さは二宮に近界民が来る前の世界を思い出させた。あるいは、近界民が去った後の。水族館が好きで、映画も好きで、甘いものが好きで、何もかもが平均的で、戦闘の才能もない。
 反して、二宮には才能があった。才のある二宮には、近界民のいない世界を取り戻すようにという目的が否応なしに宛てがわれた。そんなものもう思い出せるかと憤った二宮の目の前に現れたのがつぐみだった。
 つぐみは二宮と違う道をいく。けれど、それでよかった。人殺しの才能なんてないほうがずっといい。何にも気にすることなくどこへでも自由に行けばいい。籠の中に入れておく趣味はない。けれど、見失う気もない。
 二宮は三門を守り続ける。これまでもこの先も、つぐみがその指針だった。

20211025/ おわりのおわりのその日まで
(bouquet再録)