春だ。グラウンドの傍に植えられている桜の木がつぼみをつけ始め、どんよりと灰がかかっていた空は青く澄んでいる。1年通ったクラスも違う場所へ。新しい季節の訪れはいつだって喜ばしいはずなのに、好奇に満ちた眼差しを受ければ受けるほど、この時期を憂鬱に思うのだった。

 センバツ出場は古豪・青道の名を改めて世間に知らしめた。特に注目を浴びる選手として名前が挙がった部員も何人かいて、マ ネージャーとしては喜ばしい。......のだけれど。
――あの人が御幸先輩の彼女らしいよ、えっやば、見たい見たい
 朝練を終わらせ玄関で靴を履き替えていると耳に届く密やかな声。胸元のパリッとしたリボンは彼女達が入学して間もない事を感じさせる。そしてわたしは「名前の無いあの人」として扱われながら本日何度めかのため息をついて教室へと向かった。



 .....なんだかなあ。
 屋上のすみっこに座り込み、お弁当もそこそこにスカートのポケットの中から四つ折りにしたルーズリーフを取り出す。金曜日の放課後行われる部活動紹介の原稿は未だ単語の羅列ばかりで文章になっていない。早く高島先生に見てもらわないと、と思えば思うほど、億劫になってしまう。

 御幸を表す言葉が沢山あることは、もちろん知っている。キャッチャーやキャプテンを始め、イケメンだとか、その他諸々。その彼女となれば、好奇心を刺激するのはわかっていたことだけれど単語ばかり独り歩きする煩わしさを感じる。
御幸だってただのイケメンキャッチャー、なだけじゃないのに。

「お、いた」

 建付けの悪い扉が開く音がして、顔を覗かせたのは御幸だった。探したんだけど、と唇を尖らせて当 然のようにわたしの隣に座り込む。

「珍しいじゃん、一人で弁当?さみし〜奴」
「あのねえ。キャプテンの代わりに部活動紹介の原稿作ってるの誰だと思ってるの」
「の割には進んでねーようにしか見えないんだけど」

 御幸はけらけらと揶揄うように笑って購買で買ったらしいパンにかぶりつく。それを横目に口を噤んだ。進んでいないのは事実で、かといってその理由を本人にぶつけてしまうのは戸惑われた。

「なー、俺ってお前に騙されてんの?」

 妙な間を壊したのは御幸だった。核心を突かれて思わず片眉が上がる。
 それは、最近になって密やかに囁かれはじめた噂だった。 わたしが御幸を騙して付き合ってるとか、そういった類いの。 無理もない、わたしはどこからどうみたってただのマネージャー、かたや全国レベルで将来プロ入り確実な野球部員。外野が釣り合ってないと思うのも、おもしろくないのも事実だろう。

「......そうかもね」

 わざとふざけるような口振りが御幸なりの優しさだとはわかってはいるけれど、それを素直に受け取ることもできなくて、ため息混じりに答えながらル ーズリーフを乱雑に畳む。
 わたしだってわかっている。釣り合ってないことなんか。でも、......だからこそ。わたしも御幸も、大切に、慎重に距離を縮めてようやくこの場所に落ち着いたというのに。名前も知らない人からの噂はそれを土足で踏み荒らされているみたいで、胸に暗い影が落ちる。
 振り切るように、箸の進まないお弁当から卵焼きを口にした。甘く味付けされたはずのそれはあんまり味がしない。そのまま無心でお弁当を食べ進める。隣から注がれる視線に「......なに」と怪訝な目を向ければ、既にパンを食べ終わったらしい御幸は頬杖を付いてじいっとわたしを見つめていた。 細めた瞳の真ん中に、わたしが写っている。

「俺がめちゃくちゃ好きなのにな」
「………熱ある?」
「はっはっはっ、もう言わねえ」

 ぽつりと零されたひとことはそのまま咀嚼するにはにわかに信じ難い言葉で、らしくない振る舞いに背中がかあっと熱を持つ。
 ……もしかして、励まそうとしてくれた?まさか、御幸に限ってそんな……
 野球に関しては抜群の信頼をおけても、彼氏としての振る舞いには普段から疑問の残る目の前の男の真意がわからない。思わず背中を軽く叩いて「部員の相談にのるなんて、キャプテンも板についてきたね」 と告げれば御幸が恨めしそうな視線を寄越しながらぶっきらぼうに「彼女だからだろ」と呟いた。

20xxxxxx / きみのためなら