寮へと戻って来た御幸の頭上には既に星が瞬いていた。
さて、と携帯で時間を確認する。1年に割り当てられている風呂の終了時間はあと30分後に迫ろうとしている。急かされるのは嫌いなほうだが、こうなるとわかっていてそれでも彼女を引っ張ったのは御幸のほうなのだから仕方ない。
 しかし男の風呂だ。30分もあれば充分だと早速部屋へタオルや着替えを取りに戻ろうとしたその時、背中に向かって「おい」と低い声が投げかけられる。まるでカタギではない者のような乱暴な声色はわざわざ尋ねなくてもわかる。御幸はわざと明るい笑顔で振り返った。小湊がいたのは想定外だったが。

「あれ。純さんに亮さん。どうしたんすか?」
「どうしたもこうしたもねーよ」

 唇を尖らせた伊佐敷が御幸にずいと詰め寄る。近い近い、と御幸は両手を軽く上げて距離を取った。

「お前、篠村と付き合ってんだってな」

 ―…やっぱり、バレたか。
  わざわざ公言する必要もないけれど特に隠していたわけでもないので、部内に広まるのは時間の問題だとは思っていたが、予想より早い。そしてまあこうなる事はなんとなく予想がついていた。部員にとって、マネージャーはいわば聖域。手を出すなんて以ての外なのはどこの部活もおなじだろう。
  面倒な事になったな、と御幸は心の中で苦笑いする。結城がキャプテンに着任して暫く立ち、ひとつ上のこの学年は日に日に結束力を高めているのは、手に取るようにわかる。野球の技術はそれとして、選手だけでなく、マネージャーをも仲間と認め、一丸となって前に進む姿に学ぶ事も多い。
 その仲間に1年が手を出したと知れば確かに面白くないだろう。小湊の胸中はさておき、伊佐敷には彼女がいなかったはずだから、尚更だ。

「今年の1年は手が早いじゃん。やだね〜、若いって」
「いやぁ〜、流石に手は出してないっすよ、まだ」
「当たり前に決まってんだろーが!つーかまだって何だ、まだって」
「おいおいというか……」
「おいおいもクソもねえ!どうオトシマエつけるつもりなんだよ」

 ずい、と更に距離をつめる伊佐敷を、どうどうと落ち着ける。倉持でも通りがかれば、何かと理由をつけて逃げられるものを。それでも、ごまかすわけにはいかなかった。筋肉を癒す貴重な風呂の時間と引き換えにしてでもつぐみを手に入れたかったのは自分なのだから。




「……やだ、何それ」

 指先に巻き付けた糸を抜きながら、つぐみは顔を上げた。食堂の机を挟んで向かいに座った御幸は口をへの字にする。

「そのせいで俺、3分でシャワー浴びたんすよ、湯船にも浸かれなかったし」
「ええ〜、ちゃんと洗わないと」
「そこかよ」

 つぐみの手によって、ちくちくと一定のリズムでユニフォームに数字が縫い付けられてゆく。自分でもできないことはないが、こうしてわざとねだってみせて、わがままを許してくれるつぐみの表情をみるのが御幸は一等好きだった。
 練習の合間のひととき。針を扱うその手の細さやしなやかさに視線が吸い込まれる。
この手にまだ、片手で数えられる程しか触れた事がないのだな、と思う。

「過保護だよね、みんな」

 つぐみの表情は、言葉と裏腹に嬉しそうだ。信頼しきった仲間に向ける声色はこの先も「みんな」にだけ使われるもので、御幸に向けられることは無い。
 たった一年の差。だけど、それが恐ろしく遠く、望んで努力しても手を伸ばしても、一生届くことはない。

「……でも、」

 縫い終わったのか、つぐみがプチンと音をさせて糸を断ち切る。それからユニフォームを御幸に手渡し、仕草だけで着るように促した。

「でもって何」

 袖を通しながら、御幸が尋ねる。

「どちらかといえば、後輩に手を出したのは私なのにね」

 背番号を撫でながら、つぐみが呟く。優しい手つきは「みんな」にじゃない。自分にだけ与えられるものだと知らされる。これに触れると、何だって簡単に許してしまいそうになってしまう。自覚してんのか、この人? 御幸は諦めるようにため息をついた。

「ホンット、わるい先輩」
「捕まっちゃったね」
「そこは俺が捕まえたってことにしといて」

 誰に何を言われようが、つぐみの頬に花を咲かせられるのは、自分だけなのだ。好きだと告げられたあの日、憧れを恋慕に変えた時、他の誰にだってやるもんかと決めた。
 翻弄されるほど楽しいだなんて、大概だ。想定外が起きるほどどう出るかを考えるのがおもしろい。それは、御幸が愛していると言っても過言ではないあれによく似ていた。

20xxxxxx / 意地くらいはらせて