跳ねていた髪をふわりと浮かせて、小さな背中がこちらに振り返った。

「ねえ多田野くん、」

 かと思うと、振り返りきらないうちに、小さな背中の主・篠村さんは話し始める。

 篠村さんという女の子は、不思議だ。
まず右の後ろの髪がいつも跳ねている。右に傾けば右にぴょこんと、左に傾けば左にひょこっと動いて、ともすれば口より雄弁でおかしい。特にそれが顕著なのは、数学の時間で、こくりこくりと頭が船をこぐたびに揺れる。俺のとはくらべものにならないくらい柔らかそうなそれは見ていて飽きなくて、思考が空白になるとつい目がいってしまう。
 ……というのも、先月の席替えで俺は2回連続篠村さんの後ろの席になったからよく見えるのであって、俺が目を凝らして篠村さんの髪ばかり見ている変態野郎だとは誤解しないでほしいのだけれど。

「多田野くん、きいてる?」
「あ、聞いてなかった」
「ええ!」
「ご、ごめん」

 その席替えの偶然が起こるまで、篠村さんとは話したこともなかった。
 なのに、篠村さんは律儀なようで俺のつぐみ、そして俺が野球部である事を知ってくれていたのか、何かと話しかけてくれる。……とはいえ、おはよう、今日の宿題やった?、またね、思い返すといつだってせいぜいこれくらいの会話なのだけれども、特に俺は女子と話すわけでもないので、ほかの女子と比べればという前置きをした上で、ようやくよく話すクラスの子、という風につぐみさんをカテゴライズするようになった。

「えーと、なんだっけ? 係り?」
「うん、文化祭の! 早くしないといいのなくなっちゃうよ!」
「え、ああ、ごめん」

 再び謝ると(ほとんどなんで謝ってるのかわからないけど)、まるくさせていた目をすぐに細めて、篠村さんは笑った。というか、微笑んだ。ふふっと言ったのが聞こえるようだ。そして、ギィ、と椅子を俺の席の方に近づけて、内緒話をするみたいに顔を寄せる。

「たぶん、当日の受付がいちばん楽チンだとおもうよ」
「あ、あー…そう?」
「多田野くん野球部だし、あんまり準備来れないでしょう? 楽なやつにしたほうがいいよ」

 つぐみさんの真剣な声色にようやく顔を上げると、黒板には来る文化祭の為の係りを決めていたらしく、「買出し(※チャリ通!)」「設置(※男子)」「受付(午前・午後)」…と、書き連ねられていた。ぼうっとしている間に、既に希望を募る段階になっていたようだ。俺が黙って目だけを動かして黒板を見ていると、「多田野くん野球部で忙しいのみんな知ってるから、希望出してもだれも怒らないよ、ねっ!」と先回って念を押されてしまった。

 今更、何をしたいというわけでもない。文化祭委員の人の「はい、じゃあ次、当日受付したい人~」という声におずおずと手を挙げると、篠村さんはうんうんと言いたげに、満足そうにして黒板のほうへ向き直した。今日も右後ろの髪が跳ねている。



2
「多田野くん!」

 放課後の部活では、陽が傾いてきた頃に別メニューに別れていた部員が一度集まり、監督の指示に従ってまた練習を続ける。その前に鳴さんから解放された俺はグラウンドを出てすぐの水道で顔を洗っていた。ふと後ろから呼ばれ、びしょ濡れの顔のまま振り返ると、ぼやけた視界に篠村さんがいた。

「あ、今帰り?」

 この頃になると俺から話を切り出す事にも慣れてきており、肩に掛けたタオルで顔を拭きながら尋ねる。篠村さんの後ろの空の、向こうのもっと向こうの方は既に黒と青の混じった色をしていて、こんな遅い時間まで残って文化祭の準備をしているんだと思って申し訳なくなった。

「うん! 多田野くんは?練習終わったの?」
「いや、まだ。もう少し」
「さすが。すごいなあ」

 けれど、篠村さんはなんとも思ってないみたいで、俺越しに背伸びをして野球部員がいるであろうグラウンドを覗いた。背伸びをすると、髪がぴょこんと揺れる。今日もやっぱり、篠村さんの髪は跳ねている。

「あっ、邪魔してごめんね」
「大丈夫だけど」
「もう戻る?」
「あー、うん。そろそろ」
「そっか。あのね多田野くん」
「? なに」
「教室にいても野球部の人の声が聞こえてね、多田野くん、がんばってるかなあっておもってたの」

 へー…、と口をぽかんと開けて俺が返事したのと、グラウンドから「集合ー!」と号令がかかったのが同時だった。「ごめん、じゃ」と篠村さんに別れを告げる。
 すぐに聞こえた「がんばってね!」の声には振り返らず、でも背中を押されるようにしてグラウンドに戻った。戻りながら、篠村さんはこれから一人で帰るのかな、と思った。でも、監督の話が始まると俺の頭の中は野球一色になって、跳ねていた髪のことはすこしも思い浮かべなくなる。



3
 昼休み。学食からクラスに戻ると、篠村さんが友達(名前は知らない)と席でじゃれあっていた。どうやら、篠村さんの本?を友達が取り上げたらしい。「もう、返して!」と篠村さんの本気で困っているような声が聞こえる。そうしているうちに、本が友達の手から滑り、バサッという音を立てて俺の足元に落ちてしまった。「あっ」という篠村さんと友達の声。

「はい」

 俺が拾って手渡すと、「あ、……あり、がと」と篠村さんは下を見たまま言って、本を受け取った。あまりにもいつもと反応が違うので、何か悪い事をしてしまったのだろうかと思った。篠村さんの友達が篠村さんを肘でつついて、篠村さんが「もう!」と怒っている。

 チャイムが鳴って、篠村さんの友達が自分のクラスへと戻って行くのを見て、俺は篠村さんに話しかけた。怒ってないか、確かめたかったのだ。それに、篠村さんの本は、野球を始めた子が読むような、それこそ小学生向けのような、野球のルールブックだったし。

「えーと、……野球? の本? どうしたの?」

 機嫌を伺うように、なるたけ笑って言うと篠村さんは口をぎゅっと一字に結んでびくんと震えて振り返る。ぎこちない振り返り方だったから、いつもと違って篠村さんの髪は肩から流れるように滑り落ちた。

 普段話す時はすぐに言葉を返す篠村さんが、眉を下げて困ったように俺を見上げてくるので、怒ってはいないようだけれど、どうやら聞いちゃいけない事だったみたいだ。席だって、わざと俺と距離を取ろうとしてるのか、いつもより少し前にいる。えーと、こういう場合、どうしたらいいんだろう。何か違う話題に変えようとしたら、篠村さんが口を震わせながら「……野球の、」と小さな声で言う。

「ルールが……わかんなくって」
「ルール?」

 とっさに俺が聞き返すと篠村さんは「ほら、今年、甲子園行ったでしょ?試合観てたけど、わかんないことも多くて、だから……来年の勉強もしとこうかなって……えーっと、だから、ルールっていうか、なんていうか、うーんと」と決まりが悪そうにぶつぶつと続ける。何を焦っているんだろう。

「……それに、多田野くんが野球してるし……」

 篠村さんの言葉の意味も考えず、俺は「え、うん?」と、そんなこと、既に知ってるよね? という意味で答えたら、篠村さんはほっとしたような、でも少し残念なような、複雑そうな顔をしたから、俺の答えが合っていたかどうかはわからない。



4
 下駄箱で靴を履き替えていると、「おっ、おはよう!」と声を掛けられた。振り返る前に、その声を掛けた人物、篠村さんが隣に並ぶ。

「おはよう」
「……」
「……? 遅いね、今日は」
 
 何故だかよくわからないけれど、篠村さんがぎこちないような気がする。目が合わない。どうしたんだろう?話しかけてくる所を見るに、機嫌が悪いとかではないと思うんだけど。
 探りを入れるように、篠村さんは確かいつももう少し来るのが早かったのをなんとか頭の隅からひねりだして尋ねる。あれ、そういえば今日は、寝癖がついていない。熱心に直してきたのかな。そんな事を思っていると、「あのさ!」とさっきのおはようみたいにちょっと緊張したような、少し堅い声で切り出されて、思わず身構えた。

「野球のルールで、わかんないところがあって」

 篠村さんが立ち止まる。体はこっちを向いているけど、目線は合わない。そんな、立ち止まって言う事なのかと思ったけど、篠村さんがあんまり深刻そうに言うんだから、きちんと聞かないといけない事なんだろう。ぎゅううと両手で鞄の持ち手を握る篠村さんの手の、少しだけ見える内側が赤い。廊下の人の波を止めないように、2人して端に寄って「うん、何?」とできるだけ優しく聞こえるように尋ねた。

「本も読んだりしたんだけどテレビとか、観ててわかんないところあって、」
「うん」
「でもわたしの周りに野球してる人いなくて」
「うん」
「だから、その」
「? うん」
「多田野くんしか、聞く人がいなくて」
「う、うん」
「学校だったらすぐ聞けるけど、あの、だから……」
「……?」
「メールとか、しちゃ、だめかなっ?」

 突然顔を上げられたので驚いた。
 「い、いいけど……」と答えると篠村さんは興奮したように「ほんとにっ!?」ともう一度尋ねる。近い。

「あ、でも俺練習とかで返事できない時とかあるけど」
「ううん、いいのっ、そんなの全然いい!」
「えーと、じゃあ携帯……」

 それからすぐにアドレスを交換したら、篠村さんはほんの少しだけ頬を染めて、「ありがとう」と嬉しそうに言った。そんなに、野球が好きなのかな。俺とメールしても多分何もおもしろくないと思うんだけど。でも、野球の事ならいくらでも話はできるから、篠村さんが喜んでいるのなら、いいか。
 「ほんとにありがとねっ」と念を押してしつこいくらい篠村さんはお礼を言うので、なにか分からないことがあるのなら、できるだけわかりやすく野球の事を説明したいと思った。もし、それで篠村さんが野球を好きになってくれたら、嬉しい。

 …………嬉しい? 一瞬、篠村さんが野球の試合、それも稲実の試合を観に来てくれる所が頭に浮かんで、嬉しいと感じた自分に驚く。
 ……いや、でも。自分の学校の試合を応援してもらえると嬉しいのは当然だ。何も俺個人なわけじゃないじゃないか。考えを掻き消して、教室に入る。篠村さんはもう少し上に飛んだらスキップできちゃうんじゃないかってくらい軽い足取りで、「多田野くんはやくはやく!」と言いながらもう自分の席に向かっていた。



5
 篠村さんからは、3日に1回くらい、メールが届く。内容は、野球の事からクラスや文化祭の事まで、色々だ。普段俺は人とメールをしない方だけど(話す時と勝手が違ってメールはなんだかやりにくい)、篠村さんは疑問系でメールを送ってくれるので、返信がしやすくてとてもありがたい。

 自販機の横でジュースを飲みながら、課題についての返信を篠村さんに返し終えた所で、「あ」という声、それから、近づいてくる鳴さん。あ。

「樹がメールしてる。誰?」
「ちょっ……、クラスの子です、返して下さいってば、鳴さんっ」
「なに? 女子? 女子?? うわっマジで女子じゃん」
「別に、誰でもいいじゃないですかっ」

 勝手に取り上げられた携帯を取り返そうとしたら、「樹の癖に生意気なんだけど」と鳴さんは一気に拗ねたように唇を突き出した。こないだもブラバンの子に告られたとか自慢してたのに、俺よりモテるのに、どうしてそこで拗ねるんだと思ったけど、何でも一番じゃないと気がすまない人であるのは既に知っていたので抵抗を諦める。

「あっわかった、こないだ話してた子じゃん?なんか、ぽわっとした感じの」
「えっ」

 いつ見てたんだ。

「いつ見たんですか」
「え? 忘れた。でも樹が女子と話してるなんて珍しいな~って思ったから。ププ、だって樹、おもいっきりキョドッてたし」
「きっ……キョドッてません!」
「ダッセーと思って。へー、でも樹ああいうのが好みなんだへ~」

 一瞬、鳴さんが篠村さんを気に入ってたらどうしようと思った。けど、この反応はおもしろがってるだけだったので安心する。……安心? なんで、俺が安心するんだ?

 そもそも、篠村さんが野球に興味を持ったのも、鳴さんがきっかけだったのかもしれない。今年の甲子園観て、来年のために野球を勉強してるって言ってたし。試合の鳴さんを見て、野球に興味を持ったのかもしれない。

「そういうんじゃないです」

 なんだか急に、みぞおちが殴られたみたいにズクズク痛い。鳴さんが相手だったら、勝てないと思った。野球をしている鳴さんが、相手なら。
 ………ん? 勝てない? なんで? なんで勝つ必要があるんだ。篠村さんが鳴さんを好きなら、鳴さんが篠村さんを気に入ったなら、それでいいじゃないか。どうして俺が勝つ必要があるんだ?

「付き合ってんの?」
「つっ……付き合ってないです!」
「だよねー。じゃあ樹の片想い?」
「かっ…………」
「好きじゃないの?」
「ちっ、」

 違います。言おうとして、口を噤む。好きじゃないの? 篠村さんの事を? 嫌いじゃない。それはない、絶対にない。でも、そんな風に考えた事なかった。篠村さんの事が、好き?? 誰か? 俺が??

「……とにかく、返してください」
「え~」
「鳴さん、」
「……ま、いいや。今度の試合観に誘ってよ」
「えっ」
「キョドッてる樹おもしろいし~。あ、でも試合は真剣にしないとブッ殺す」
「当たり前じゃないですか! あ、鳴さん明日の練習の事なんですけど」
「おやすみ~」
「あっ、め、鳴さん! ……………もう」

 結局鳴さんには逃げられてしまうし、部屋に戻ってからも、俺は鳴さんとの会話をずっと頭の中で繰り返して上手く眠れないしで散々だった。
ああいうのが好み。好きじゃないの。好き? 篠村さんの、事を? でも、すぐに違います、と言えなかったのはどうしてだ?
あの後篠村さんからの返信はなくて、もっと返信しやすいメールをすればよかったと思った。



6
 そもそも、篠村さんが野球に興味を持った理由なんて考えた事もなかった。言われるがまま、純粋に、試合を見て興味を持ったのだと思っていた。考えてもみれば、試合を見たなら活躍した鳴さんも見たに決まってる。それに、鳴さんじゃなくても、他の先輩を見て、……好きになった、ってことだって充分有り得る。

 結局俺は篠村さんの事を何にも知らないんだ。
仲良くなった気でいたけど、何で野球に興味を持ったのかとか、熱心に聞いてくる理由だとか、もっと言うと、好きな食べ物も、どこの中学出身なのかも、……彼氏がいるのかとか、とかも。

「多田野くん?」

 ぼんやりしてたら目の前に篠村さんの顔があってびっくりした。

「えっ? あ、ごめん」
「ううん、多田野くん、隣いい?」
「あ、うん」

 篠村さんは文化祭で展示品を作るするのに使うダンボールを手にしながら、俺の隣に座る。
文化祭の前日。教室からは机と椅子を取っ払ってあるので、みんな地べたに座りながら作業をしていた。僅かながら、俺の担当してる展示の説明文作りは下書きすらも出来てない。

「あー、多田野くん全然進んでない!」
「あ、うわ、」
「大丈夫、手伝うよ!」

 隣に座った篠村さんは、元々小さいけど、座ったらもっと小さくなって驚いた。そっか、女の子なんだ。当たり前の事実がなぜか胸に突き刺さる。
 何の形になるのかもわからないダンボールを隣に置いて、説明文を作るための百科事典を「うーんと、えっと」とうんうん言いながらめくっていく篠村さんの指先や、伏せられた睫毛だってどれもこれも繊細そうな作りで、俺なんかがぎゅっと触れたらぱりんと音を立てて壊れてしまいそうだ。心臓が俺の胸の中で暴れそうなくらい早く鼓動を刻む。なんだこれ、病気か。

「……あのさ、篠村さん」
「? なあに」
「野球に興味あるんだよね? 実は今度試合……練習試合だけど、学校であるしよかったら……観に来る?」

 真剣な篠村さんをよそに、俺の視線は展示物に注がれていなかった。クラスのみんなが誰もこっちを気にしていないのが幸いだ。
 そう、これはただの雑談で、その流れで試合に誘う事は変な事でもなんでもない。でも、その変な事でもなんでもないのに、この気持ちは何なんだろう。親に試合観に来るか聞く時と全然違う。なんだこれ。断られたらどうしよう。かなりかっこ悪い。

「すごい人沢山いるし甲子園より近くで見れるし、たぶんおもしろいと思う……ん、だけど」

「鳴さ……成宮っていう、先輩なんだけど。ピッチャーの。甲子園でも投げてた」

「速い球とか、本当にすごいし、他の先輩も、見ごたえあるよ。練習試合でも。隣のクラスの、江崎ってわかる? そいつも出てるし」

 俺、何言ってるんだろ。ぽかんと口を開けて目を丸くしてる篠村さんに向かって矢継ぎ早に話すけれど、これで篠村さんが成宮先輩? 知ってる知ってる! ファンなの! とか言ってきたら俺はショック死するかもしれない。でも、もっと後になって、実は鳴さんのファンでしたって言われるよりましだ。今なら、取り返しがつくし。……取り返しって、何のだよ。

「……多田野くんは?」
「え?」

 篠村さんと目を合わさないようにしていた俺は、いつかの、メールアドレスを交換した時の篠村さんに似ていた。もしかして、あの時篠村さんは緊張してたのか? だったらどうして。

「わたし、多田野くんが、見たい」

 篠村さんの黒い瞳がまっすぐに俺に向けられる。篠村さんの目ってこんなに、まんまるだったっけ? 唇ってこんなに赤かったっけ?
俺は自分に都合のいい仮定を、頭の中で1つ、作り上げる。もしかしたら。もしかしたら、篠村さんは、俺を―…?

 篠村さんの髪が揺れる。隙間から見える、耳が赤い。俺もそうかもしれない。そうだったらかっこ悪い。かっこ悪い、けど、いい。なんだっていい。ずっと前から、かっこ悪い俺でも、篠村さんは見てきてくれたんだ。

「……篠村さん、あのさ、やっぱり、……うん。俺も出るから。見に来て」

20xxxxxx / 揺れるハートビート