夏の空は他の季節より澄んでいる気がする。小さな頃から、その下で白球を追いかける姿がわたしの心を惹き付けてやまなかった。当然のように野球部に入部届を提出したのが二年前の春。目まぐるしいスピードで季節は巡り、気付けばわたしの、――わたし達の最後の夏は終わりを告げていた。

とはいえ、世間は夏も真っ盛りで、庭の雑草すら太陽に負けを認めそうになる猛暑のなか、テレビの向こうの野球少年達は甲子園を舞台に懸命に試合をしていた。引退前は練習潰けの毎日だったから、こんな風にこの時期をのんびり過ごすのは初めてだ。受験生だというのにソファにだらしなく体を預けてアイスを食べているわたしの姿にお母さんが呆れた様子で聞こえるように溜息をつく。それでも文句を言わないのは優しさなのだろう。
わたしの所属する薬師高校野球部は、甲子園への切符を手に入れられなかった。それを未だに、引きずっているのだ。
液晶内でバットが快音を告げ、観客がどよめいたのをぼうっと眺める。真剣に見ていると、この場面なら雷市が、監督ならもっとだとか、真田なら……とどうしたって比較してしまうから、いけない。最後の試合が終わった後、嘘のようにスッキリとした顔をしている同学年のレギュラー陣を残して、わたしひとりだけが夏を終わらせられないでいる。
ふとテーブルの上のスマホが震えたのに気付いて、のろのろと起き上がった。まさか夏期講習に勤しんでいるらしい友人たちがこのだらけた夏休みを過ごすわたしに連絡をしてくる事なんてないだろうし、アプリの通知かと思い手に取ると、ディスプレイには意外な名前が表示されていた。

「……え、真田ひとり?」

真田とは、夏祭りの会場である神社の参道の少し手前で待ち合わせをしていた。人混みの中でも頭ひとつ抜き出ているから、その姿を探すのは容易い。わたしにとって真田はいつでも目印だった。マウンドにいなくても、グラウンドにいなくても、目を引く存在。エースと呼ばれるのはその実力だけが理由なんじゃない。どこか人を惹きつける力があった。
練習がなくなって、少し見ない間になんだか顔つきが大人になった気がする。憑き物が取れて、穏やかになったような。わたしが近づけば、すぐに気がついたのか真田はよお、と右手を上げ歯を見せて笑った。それから、わたしの質間に答えることなく「浴衣じゃねーんだ」と少し残念そうに告げる。

「急に誘ってきたのはどっち」
「そりゃそうか。来てくれてサンキュ」
「暇してたので」
「世の中の受験生が聞いたら怒るぜー、それ」

くっくっと喉の奥だけで笑って、真田が喧騒の中へと足を踏み入れる。追いかけるようにその隣に並んだ。
高校の近くにある、少し大きめの神社では毎年この時期にお祭りが行われている。とはいえ、わたしも真田も参加するのは初めてのはずだ。帰り道、掲示板に貼られているお祭りのチラシを見ては、行きたいねだとか、行く相手もいないでしょだとか冗談を言うだけで、実際この時期は練習か試合の毎日だったから。

「ていうか、みんないると思ってたんだけど……」
「俺言わなかったっけ?」
「聞いてません」

湿気が混じった土と青葉の匂いに混じって、ソースや醤油の甘辛い香りがする。騒々しさに負けじと声を張る、周りのお祭りの声に紛れて、下駄が石畳を弾む軽快な音が耳についた。

「晩メシ食った?」
「まだ」
「よし、端から制覇してくか」
「シャレにならない冗談はやめてよ」

いつもみたく冗談を交わしてはいたけれど、やたら浴衣姿の女の子が目に入る。真田の言葉のせいだろうか。ふたりだと知っていたら、前もって誘われてたら、わたしは浴衣を着たのかな。
人の流れに沿って一歩、また一歩と進む速さがゆっくりすぎて、いつもなら思いもよらないことを考えてしまう。浴衣で来たら、真田は何て言っただろう。

「祭りって雰囲気だけでもいいよな」
「うん、わたしも好き」
「……お、タコ焼き食おっと」
「ほどほどにしてね」

波を避けて、真田が屋台へと吸い込まれてゆくのを少し離れて見つめる。提灯がその背中を橙に透かしていた。ユニフォームでもジャージでも制服でもない姿はどこか新鮮で、白いTシャツが真田の背の筋肉を緩く縁取るのをじっと眺めていると、どうしてだか胸がざわめき始め……真田は、来年は他の誰かとここに来るのかな。
誘ってくれたのは、きっと単なる気まぐれ。もしくは違う人が捕まらなかったからに違いない。なのに、その奥の意味を、ふたりきりの理由を真田の言葉尻から探してしまうのは、お祭りの熱気にあてられたからだろう。
もしくは、手が触れ合うくらい近くに隣立って歩いていないとはぐれてしまう、この距離のせいだ。野球部員とマネージャー。その枠組みがなくなった今、真田とわたしの関係が何なのか、わからない。友達とは、少し違う気がする。

「うまそう」
「良かったね」
「一緒に食お。抜けたとこに穴場あるんだよな」
「よく知ってるね」
「聞いた」
「へ~……」

だからこそ、来年真田の隣にいるのはわたしじゃないんだろうな、と思い知る。
野球があるから、同じ部活だから、同じ学校だから、今ここにこうしているだけだ。その事実を意識すればするほどみぞおちの辺りが苦しくなった。どうして今更、当たり前の事実をこんなに寂しく思うのだろう。屋台が並ぶ参道から一歩横に逸れるたびに、ざわめきが遠くなるたびに、夏の終わりを突きつけられるような気がするから? 真田がいつもと違うから? ふたりきりだから?

「……疲れた?」
「え?」
「死にそうな顔してっから」

首を傾げるようにして顔を覗き込まれて、その近さに思わず身体ごと仰け反った。驚いて目を見開いてしまった表情をなんとか元に戻し、平然を装って指先で適当に前髪を撫で付ける。

「や。……、なんかね、お祭りは好きなんだけど……寂しくなっちゃうなと思って」

真田の前で、嘘をついて誤魔化したってどうにもならないことは知っている。だから正直に言葉にならない言葉を重ねたけれどすぐに後悔した。

「寂しい? 手でも繋ぐ?」
「馬鹿?」

人が真剣に話してるのに。恨みがましく睨みつけるも引っ込みがつかなかったわたしは視線を逸らしつつ、真田に言うんじゃなくて、電灯がぽつりぼつりと広く間隔を開けるせいでできた暗闇に向かって、零すみたいに呟く。

「来年はさ、みんなの…真田のいない夏なんだなって思ったら、なんか」
「来年も来ればいいじゃん」
「え?」

顔を上げると、真田がわたしを見つめていた。その表情には笑みが浮かんでいたけれど、目は真剣だ。

「さっきのも冗談じゃねーし、まだわかってない? 何で俺が篠村のこと誘ったか。もうちょい意識してくれると思ったんだけど」

真田が持った、タコ焼きの入ったビニール袋が乾いた音を立てる。次の言葉が、聞きたいような、聞きたくないような。

「練習なかったら会えねーんだって今更気付いて焦ったんだよな。会える口実が欲しかった。言いたかったし」

予感がしている。関係が、三年間、守り続けた距離が変わってしまう。次の季節の来訪を、よりにもよって真
田に突きつけられている。

「篠村が好きだよ。マネージャーだからとかじゃなくて、彼女としてそばにいて欲しいって思ってる」

暗がりの中、月明かりだけが真田の類を照らしていた。うまく言葉が出てこなくて、自分のスニーカーを履いたつま先ばかりを見つめていたら、真田がわたしを呼んで、指先を取った。真田の手はおおきくて、なんだって掴んでしまえそうで、わたしは夏が終わるのが嫌だったんじゃなくて、この手に次の季節を重ねられないのが寂しかったんだと今更気が付いた。

20xxxxxx / ラストシーンのその後で