我ながら、酷い女だと思った。
 涙を流すリナリーの隣で、神田が死んだと聞いた私はどこか安堵していたのだから。
 いつも夜を抱えているかのように鋭く光る瞳が、もう憎しみを映す事はない。近付いてくる人間を疑わなくて良ければ、戦って傷付く事も無いのだと。

 戦争は終焉に向かうどころか日々苛烈さを増してゆく。教団に運ばれる棺の数は日を追う事に増加し、錆びた鉄のような血の匂いと、その上から被せたような消毒液の香りが教団に充満し、鼻腔を貫く。

「医務室から出る時はサインをしなくては駄目よ」

 後ろからに婦長に声を掛けられ、利き手に巻かれた包帯の端を、無意識に爪で引っ掻いていた事に気付いた。隠す為とっさにそれを背中に回すも、婦長はあっさりと私腕を掬うように手に取る。

「本当、ワーカーホリックね……」

 きゅ、と慣れた手つきでそれを結び直しながら言うその 声は真っ直ぐで平坦で、なのにどこか優しくて、居た堪れない。
 この戦争において、エクソシストは必要不可欠なのだ。ひとりでも減れば大きく戦況に関わる。ラビは姿を消し、アレンは教団が総力をあげて捜索している。神田も死んだ今、何時までものんびりとベッドで眠ってはいられない。伯爵もイノセンスも待ってなんてくれないのだ。

「勝手言ってごめんね」

 カルテを受け取り、ポケットから取り出した万年筆を紙の上に滑らせる。
 ありがとね。唇に弧を描いたら、婦長は骨ばった腕で、私を抱きしめた。もし私が死んだら、婦長くらいは、ただ純粋に、兵力としてではなく篠村つぐみとしての死を、悲しみ惜しんでくれるだろうか。



 傷付いたイノセンスは科学班に預けていると聞いたので、正座をしているジョニーの脇をすり抜け、背を向けていたリーバー班長の肩を叩く。振り返った班長は電話中の様子で、手振りだけで、出直そうか?と尋ねたところ、班長は受話器の向こうに断ってそれから耳を外し、私の肩をバシッと効果音がしそうな程、両手で強く握る。

「リーバー班長、」
「……つぐみ、よ〜〜く聞け!」

  やけに班長が真剣な目をしるので、少しだけ腰を仰け反ってその熱意を逸らす。一体、何だと言うのだろう。

「な、何………………」
「お前のイノセンス、アジア支部にあるんだ」
「え!?」

 なんで?頭に浮かぶと同時に口をついて出る。

「詳しくは行ったらわかる!あの巻き毛室長が持ってるから」
「え、え〜?なんで?室長に改造されてるの?私のイノセンスそんなに重症?」
「いいから!急げよ!」
「そ、そんなあ……だってアジア支部って今ズゥ老師の事で忙しいんじゃ……」
「いーから早く行け!」

  ……ひ、人のイノセンスをよくも勝手に……!
 悪態をつきながら、ゲートを通る。アジア支部に向かうのは久しぶりだった。ズゥ老師の事を別にしても、あまり進んで足を踏み入れたい所ではない。ここの空気は、どうしたってあの人を思い起こさせる。

「ほんとに改造されてたらどうしよう……」

 呟きながら、廊下を歩く。ここ最近、ズゥ老師の体調は芳しくないようで、支部全体がどんよりと重い雰囲気に包まれていた。大体、私のイノセンスがアジア支部に何の関係があるっていうのだろう。とはいえ、それが無ければ任務に出る事すらできない。室長がいるとすればいちばん奥の部屋だろうか。入っても許される雰囲気であるといいのだけれど……、叶いそうにもない希望を胸に宿し奥へと進んで行くと、廊下の角から曲がってきたよく見知った顔と鉢合わせした。その人は私が口を開くより先に、パッと花を咲かせるように笑顔を作る。

「つぐみっ!」

 そこに居たのは、任務でプロヴァンスに向かったと聞いていた、リナリーだった。ちょうど良かった。久しぶりの再会を喜ぶように駆け寄り、手を取る。

「リナリー!室長見なかった?わたしのイノセ……ン……ス、」

  ――……嘘。
  続きを言う事ができなくて、へたりとその場にしゃがみ込む。リナリーの後ろにマリ、その隣に――…
足に力が入らない。「あ、」声が震える。

「…アートオブ神田は、いくらなんでも冗談キツいよ、リナリー…」

 リナリーのイノセンスでもあるパンプスと、マリのブーツ、それから、それから……、神田、の、黒いブーツが視界に入った。視界がゆっくりと温い水で覆われていくように、揺らぐ。
 見間違える筈がない。私が、神田を、見間違える筈はない。一体、どうして。死んだはずの神田が、団服を、着ているの。

「つぐみ、嬉しいね、神田だよ、嬉しいよね」

 へたり込んだ私に、リナリーがしゃがんで視線を合わし、改めて手を握った。

「……生きて、戻ってくれたんだよ……」

 リナリーの言葉も揺れている。
 …もう二度と、その姿を見る事なんて出来ない。次に会えるのは、きっと死んでからだ。散々戦って、死んだらその時に、会えるんだって、信じていたのに。
リナリーの首に腕を回し、細い肩に瞼を押し付ける。

「つぐみ……」

 背中に回るリナリーの腕が泣いていいのだと言っているような気がして、その時やっと班長が嘘をついたのだとわかった。本部の科学班がいれば事足りるイノセンスの修繕作業を、わざわざアジア支部に持ち込んでまで行うわけがない。もっと疑えばよかった。でも、疑わなくて良かった。
 砂漠のように干からびた胸の中に、水が注がれていくような心地だった。リナリーの腕が、班長の嘘が、ゆっくりとそれを促す。

「おい、いつまでもお前らに付き合ってる暇はねェんだよ」

 暫く2人で抱き合っていると、まるで猫にするかのように、神田はリナリーの団服の首元を掴んで引き剥がした。
「何よっ」、同じように涙を浮かべていたリナリーはそれを指先で拭ってキッと神田を睨み付ける。

「乱暴はするなよ」
「うるせェ」

 ずっと、モノクロだった景色が色付いていくみたい。神田の双眸がわたしを見据える。

「……どいつもこいつもピーピー泣きやがって……」

 神田が死んだと聞いて、安堵したのは嘘じゃない。神田が自由になれて良かったと思った。それなのに。なのに、また会えた事が、こんなにも嬉しいなんて。
立ち上がり、その勢いのまま走り出す。黒髪が揺れるその背中に飛び付くように抱き着いた。

「神田!」

 新しい団服の香りに包まれた石鹸の香りが、落ち着いた涙の温度を上げてゆく。
 悲しかったよ、さみしかった。死んだのだと自分の心に信じさせるのが怖くて、蓋を閉じるように考えないようにしていた。

「……おかえり!」

 帰ったら婦長に謝らなくちゃと思った。生きているだけでこんなに嬉しいのに、兵力としてだなんて、見るはずがないのに。私の態度はきっと傷付けていたね。

「言うのが遅えよ」

 神田が生きている。それだけで嬉しいや悲しいを思い出す。満ち足りていく。どうか地獄への帰還に喜ぶ私を、酷い奴だと言って笑って。

20xxxxxx / 上手にさよならが言えない