膝丸が襖を開けたことで、徹夜に耐えられずしょぼくれていた瞳に陽が射した。近侍である髭切が私の隣でおや、と小首を傾げる。

「主、他に仕事はあるか」

 私の自室に入るか入らないかぎりぎりのところで片膝をついた膝丸は神妙な面持ちでそう尋ねた。彼には今日、畑当番を頼んでいたはずだ。春を迎えるにあたって一期一振と買ったじゃがいもの苗は、収穫すればついに大所帯となったうちの本丸でも数日は耐えられるほどあったというのに。
 じゃあ、と馬当番を手伝ってくるよう告げる。確か今朝、寝ぼけ頭のまま薬研に頼んでしまったから苦戦しているに違いない。膝丸も馬当番は苦手なようだけれど、苦手なもの同士なんとかするだろう。
 意外にも膝丸は嫌な顔をするどころか私の命にぱあと顔を綻ばせ、確かに任されたと脱兎の如く馬小屋に向かった。その間体感五秒である。

「なにあれ」

 膝丸が去った後の廊下を指さして髭切が尋ねる。

「最近ずっとああなんだよね……」

 膝丸の献身は今に始まったことではない。元々うちにいる刀の中ではどちらかといえば従順なほうではあるし、恋仲というのもあって私の言うことなら多少の無理は聞いてくれていたけれど、つい一ヶ月ほど前から特にその傾向が強くなった。

「もうすぐバレンタインだからかなあ」
「ばれんたいん?」
「現世では友達とか恋人にお菓子をあげるイベントがもうすぐあるんだよ。ま、うちの本丸ではしないけどね」
「主にそんな暇ないもんね」
「そうそう」

 目の前には書類の山がそびえ立っている。審神者になって折角友チョコ義理チョコ大量手作り生産文化から離れられたというのに、わざわざ蒸し返すことも無かろう。
 膝丸は、勤勉であれば褒美ならぬチョコレートが貰えると期待しているのかもしれないけれどサンタクロースが来るのはクリスマスだけだ。せめて内番をがんばったぶんお小遣いだけはほんのちょっと上乗せするから許して欲しい。

「どうせなんだし、放っておいたら?」

 髭切が興味無さ気に言い放ち、私への差し入れだったはずの団子に手を伸ばす。まあこの兄のいうことも一理ある。膝丸がいい子であっても、困ることはないのだ。ただ、それに応える術がないだけであって。
 
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 ひとりなのをいいことに、ふあ、とわざと大きくあくびをする。結局、私の目論見通り我が本丸にバレンタインデーが輸入されることはなかった。そのお陰で仕事は無事終わったし、万々歳だ。自室の襖を開け凝り固まった腕を伸ばす。所詮CGが見せている映像ではあるものの、向こうの空が茜色をしているということは今は夕方なのだろう。

「主」

 廊下に出ると、背中から声がかけられた。膝丸だ。最近忙しくて放っておきっぱなしだったし、事情はわかっているとはいえ流石に怒ってるのかもしれない。怒られる前に謝っちゃえ、と頭を下げるつもりで振り返ると意外にも膝丸はその薄い唇に笑みを浮かべていた。

「どうしたの。上機嫌だね」
「主、何も疑わず手を出してくれないか」
「何? 手? なんで?」
「頼む」

 訝しむようにその栗皮色した瞳を覗き込むも、膝丸は全く意に介さない。諦めて両手を差し出した。一体どうしたんだろう。まさか、この期に及んでチョコレートをねだられるんじゃ……

「紅……?」

 もういい? 言いかけて口を開きかけた私の手のひらに、コンパクトのようなものがころんと載せられた。
 ……知っている。これは口紅だ。それも、わたしが以前から万屋に寄る度に眺めていたもの。

「今日はばれんたいんなる日なのだろう」
「そうだけど……よく知ってたね」
「教えてもらったのだ。恋い慕う相手に贈り物をする日だと」

 誉をとった時のように、膝丸が満足気に笑う。
 そこでようやくわかった。膝丸はバレンタインに私から何かを貰うために頑張ってたんじゃなくて、何かを贈りたくてお小遣いを貯めるために頑張っていたのだ。申し訳なさに喉の奥が熱くなる。私が面倒だとか仕事が溜まっているとか言い訳ばかりしている傍ら、膝丸はただ真っ直ぐに好意を向けていてくれていたというのに。

「…………私、なにも用意してないよ……」
「いい。俺があげたかったのだ。現世はいいものだな、こうやって想いを伝えることのできる日があって」

 目を細めた膝丸の、その眼差しの向こうには何が映っているんだろう。遺されたぶんしか知らない膝丸の刃生の裏で、一体どんなことがあったんだろう。たまらなくなってその胸に飛び込んだ。

「膝丸! ホワイトデーは楽しみにしててね!! 光忠に言って十段ケーキ作ってもらうから!!」
「主が作るのではないのか」

 刀が人の身になっただけでどうしてこんなに暖かいのか。腕ごといっぱいに膝丸をぎゅうぎゅう抱きしめる。振り払うことも首を切ることだって簡単に出来るはずなのに、膝丸はただ私の腕の中で嬉しそうにくつくつと笑っている。

20xxxxxx / 浅き夢見じ