「ダンスパーティ~~~?」

 リナリーから突然告げられた華やかな単語に、任務が終わって荷解きを済ませたところのトランクをわざと大きな音を立てて閉じるも、わたしの顰められた眉なんてまるで気にもしない様子でリナリーは「そうなの!」と朗らかに笑って、楽しそうに両手を合わせた。

「今年のクリスマスはすこし盛大にしようかって、リーバー班長と言ってて」
「…そんな暇あるの?」
「そんな暇ないからよ。みんな毎日がんばってるんだし、クリスマスくらい、息抜きしたっていいはずだわ。できるだけ皆に参加してもらいたいの」

 リナリーの微笑みの向こうに、リーバー班長の隈だらけの顔が思い浮かんだ。
 確かに、毎年クリスマスの日にパーティとは名ばかりの、その日本部にいるメンバーで宴会のようなものが開催されている。お互い団服や白衣を着たままの、食堂で行われる気軽なものだ。チキンやケーキ、ほんの少しいつもより色とりどりに飾られた食堂の壁。いつも参加するのが楽しみだった。
でも――……

「ダンスって……………………」

 以前の任務で貴族のパーティを覗いたことがある。ダンスパーティーならあの「ダンス」が求められるのだろう。
 ゆったりとした音楽に重ねられた手、重そうなドレスにキラキラと光を降り注ぐシャンデリア。
――ガラじゃないよ。
そう言いたいのをぐっと堪えて人差し指で頬を掻きながら、目を逸らした。
科学班のみんなが作ってくれたキュロットスカートにショートブーツという機能性重視のわたしの団服は、ドレスとは似ても似つかない。

「大丈夫よ」

 目線を泳がせたままのわたしに近付いて、リナリーはその両手を力強く握った。

「少し練習すればすぐ上手になるわ」
「そうかなあ…………」
「そうよ。当日は少しお洒落して、それで」
「それで?」
「神田の事、誘っちゃおうよ」
「なっ………………」

 突然出された名前にカッと顔が赤くなる。
 神田。
 同じエクソシスト、と言うには実力の差がありすぎる、でも、わたしたちの、大切な仲間。もうそろそろ、長い付き合い、と形容してもおかしくはないくらい、ここで一緒に時を過ごしている、――…わたしの好きな人だ。
今の所、この気持ちが成就する予定は兆しも見えないけれど。

「大丈夫、貴女が誘えば神田も来るはずだから」
「来ないと思うけど…………」
「そうかな?」

 なんでそんな自信満々なの、と呟いた言葉には返事が返って来ないまま、リナリーは握った手の力を少し強めた。
わたしは、この笑顔に滅法弱い。

「きっと皆に楽しんでもらえるようにするわ。ジュリーさんのケーキはきっと絶品よ」

 クリスマスはあと一ヶ月後に迫っている。


「1、2…そうそう、」
「へえ、なかなか上手じゃないですか」

 談話室のテーブルを脇に避け、空いたスペースでリナリーに手を引かれているわたしの様子はダンスをしているというより、初めて立ち上がる馬のようだった。ソファに座りながらそれを見ていたアレンの言葉に苦笑いする。

「ハハ…ありがと…」
「嘘じゃありませんよ。ねえラビ?」
「ん? ああ、そうさね。躓く回数が7回から4回に減ってら」
「数えないでよぉ~…」
「悪ィ悪ィ。なんでも記録すんのが癖なんさ~」

 慣れないピンヒールのせいで痛む足が、皆の言葉に反してにわたしの自信を失くさせる。
 
 ヒールの靴を持っていないと言ったわたしにリナリーが貸してくれたのは、彼女が持っている中で一番低いヒールのパンプスだった。足首に回されたベルトで有る程度サイズを調節して脱げなくはしたものの、驚いたのは実際に足を入れて立ち上がった時の、普段とは違う目線の高さ。わ。と、新鮮な気持ちになったのはその一瞬だけだった。
 歩き出してみてわかる、不便なつくり。前のめりになるせいで指の付け根に重心がかかって、時間が経つ毎に足の裏がじん、と傷む。膝を伸ばして大股で歩くなんてこの靴では持ってのほかだ。
 ――だれかにだいじにされるための靴なのだ、これは。
 頼りない踵のヒールの細さは、それをひどく痛感させた。わたしが足を踏み入れるこのとないところ。

「上手くできなくったって、ダンスは本来男性がリードするべきものなので、心配する必要はないんじゃないですか?」
「そうそう。男に任せりゃいいんさ。見も心も~っつってさ」
「ラビにはそもそも相手がいるかどうか…」
「アレン酷ェ~!! ……お、ユウじゃん。やっほ~」

 みんなと話していると、ふと遠慮なく談話室の扉が開かれて、全員の視線がそこに注がれる。入ってきたのは神田だった。ラビの言葉にびく、と肩が控えめに跳ねる。会いたくなかった。見られたくなかった。今この姿は。
 そんなわたしをよそに、神田はテーブルや椅子が移動させられた談話室を隅から隅までくまなく見つめて、それからわたし達に目を留めた。

「デイシャが呼んでるっつーから来たんだが」
「デイシャ? 来てねーぞ」
「私達しばらくここに居たけど見てないわ。ね?」

 向かい合って手を重ねたままのリナリーがわたしに言うので、仕方なく、「うん…」とだけ小さく答えて、俯いた。会話の輪に、どうしても入りたくなかったのだ。
 わたしが答えたせいで、神田がわたしを見た、のが視界の端でわかる。
 どうか、お願い。かみさまなんて信じてないのに、祈ってしまう。この靴に気付かないでいて欲しい。この靴がまるで似合ってないのなんて、わたしにだってわかってる。

「…合ってねェ」
「!」

 でも少し、期待だってしていたから。
 リナリーに押し切られた形、みたいに装って、心のどこかで楽しみにしてた。もしかしたら、もしかしたら神田と、って。
 リナリーが「ちょっと神…」と言い出すのを手で遮る。

「………神田に関係ないし」
「あ?」
「ちょ、ちょっと二人とも…」
「……別に、わたし、神田と踊るわけじゃないもん」

 ね!と、確認するようにリナリーの手をギュッと強く握って言うと、目をまんまるくしたリナリーは「え、ええ……?」と戸惑っていた。
 これ以上言ってはいけない。頭の中でもう1人のわたしがそう言ってる。それでも止められない。
 わたし達は、いつもこうだった。わたしが神田に想いを伝えられない理由。素直になれない理由。口を開けば、喧嘩ばかりしてしまうから。

「ハ、頼まれたってこっちこそ御免だ。そんな足も覚束ねェ奴」
「……神田、女の子にそんな言い方はないんじゃないですか」
「アレン、いいよ。ふんだ、神田には、なにも関係ないでしょ。わたしだってもうラビに誘われてるもんねーだ!」
「え 俺ェ?!」
「神田なんて、神田なんて、1人でお蕎麦食べてればいーじゃん!」
「言われなくたって参加するつもりねェよ、邪魔したな」
「バイバイ!!!」

 イーッと顔を顰めてみせたら、神田も眉を釣り上げた顔のまま、この場から去った。バタンと勢いよく閉じられた扉の音が談話室に響く。

「…………………やっちゃった………よ、ね…いつもの事ながら…」

 ゆっくり振り返ると3人が額に手をついて俯いていた。



「ゴメンゴメン、だって言ったら嫌がったでしょ?」

 電話の向こうで、室長がケラケラと笑いながら言う。絶対悪いって思ってない。

 談話室の件から3日後、室長から任務を言い渡された。期間は約1週間という短期任務で、共に向かうエクソシストは別の任務に出ていた為、現地で合流。そう告げられて、ミランダかクロウリーさんかと思ってたのに…

「なんで神田だったんですか!」
「レベル3のAKUMAがいるかもしれないって言ったじゃないか。火力はあるに越したことはない」
「そうですけど………」
「丁度スイスで任務を済ませたのが神田くんだったんだよ。勝手知ったる仲でやりやすいじゃない」
「ほんとにそれ思ってます?」
「やだなー、僕の事疑わないでよ。兎に角、明日の昼まで船がないんでしょう?折角だし、少しゆっくりしておいでって神田くんにも伝えてくれるかい? その後神田くんは一度本部に戻って来る事。それから、つぐみちゃんには悪いけど直接次の任務をお願いする。詳細は後でね」
「はあ………」
「じゃ、くれぐれもよろしくね。今回もお疲れ様。大丈夫、マヨルカ島の優しい日差しと綺麗な海を見ていれば、神田くんとだって仲直りできるさ」
「なっ」

 知ってたんじゃないですか! というわたしの叫びは、電話の向こうの「室長またサボッてんのか?!」というリーバー班長の声によって遮られ、誰に受け止められることもなく、宙ぶらりんになってしまった。

 1週間。――正確には6日間――で終えられた任務は、懸念していたレベル3の出現もなく、無事に終えられた。AKUMAの数は予想より多かったけど、室長の見立て通り、火力のある神田がいてくれたお蔭で、かすり傷がいくつか、それから軽い捻挫くらいで、大きな怪我もない。このくらいなら、次の任務に支障はないだろう。

 ――……支障は、確かに、ないけれど。
 問題は、あった。
 勝手知ったる仲といわれるくらいには、神田がどう戦っているか、わたしがどう戦おうとしてるか、お互い理解していた。わざわざ言葉を交わさなくても。

 そしてその通り、わたし達はあれから必要以上の言葉を交わしていないのだった。

「……コムイの奴は何て?」

 宿の部屋に戻ると神田は既に団服を着込み、帰り支度をしていた。トランクひとつにまとめられた荷物は、今すぐ任務だと言われても飛んでいけそうなくらい軽やかで、思わず身構える。
謝るタイミングだとか、話しかけるタイミングを、わたしはもうずっと、逃し続けている。
 最も室長の言う通り、明日の昼までこの部屋にいる必要があるのだけれど。

「船がないなら、明日までゆっくりしていいよって。神田はそのままホームに帰ってきて、だってさ」

 チッ。計画と違ったのか、神田は舌打ちをしてドサッと音を立ててベッドの端に座る。ピンと張られた白いシーツがその重みの分だけ皺を作り出した。

「お前は?」
「わたしは次の任務に直接行くけど……今は時間あるし、買い物でもしてこようかな。神田はこのまま部屋にいるでしょ?」
「その足で行くのか」
「え?」
「怪我してんだろ」

 ……だから、言葉なんて、交わしてないのに。

「………軽い捻挫だよ。大丈夫」
「誤魔化してんじゃねえよ」

 手を掴まれたわけでもないのに射抜くような目がわたしの足をその場に縫い付ける。少しの沈黙の後、神田が立ち上がってわたしの「え、と……」という言葉を遮った。

「包帯は」
「ファインダーの子に使っちゃって、買いに行こうと思ったんだけど……」
「…チッ」

 大きな舌打ちをまたひとつして、神田はわたしの腕を乱雑に掴んで引っ張った。バランスを崩したわたしはそのまま部屋に備え付けのソファにお尻から沈み込む。

「な、…」に。言う前に、神田はわたしの目の前に膝を付いて、それからわたしの右のショートブーツをいきなり足から抜き去っ……

「な、なにしてるのー!?」
「うるせェ」

 ギョッとして思わず足を引っ込めようとしたけれど、神田の両手に強く掴まれて逃れられなかった。
 ずっと黒に隠れていたせいで余計に白く見えるわたしの頼りない足が、見下ろす神田の瞳に映る。ギュ、と眉根を寄せたのは、握られた事による痛みじゃなく、恥ずかしさに耐えるためだ。

 神田の親指が、想像もつかないくらいそっと、わたしの足首を撫でる。チリ、とした痛みが背に走った。
 それに気付いたのか、小さな舌打ちの後、神田はわたしの足に触れている手と反対の手で、器用に団服のボタンを外し、インナーの裾を歯で咥えたかと思うとビリ、と力強くそれを破った。

「な、なっ、神田!?」
「黙ってろ」

 動揺するわたしとうらはらに、神田は破ったインナーで包帯の形を作り出し、黙ったまま足首にそれを巻いていった。時折、思わず声を上げてしまいそうなくらい強くギュ、ギュ、と巻き付けられる布が、わたしの胸も締め付ける。不揃いな切れ端も相俟って不恰好な見た目は、神田のわかりにくい優しさみたいだ。
 ……わたしやっぱり、神田のことが、好きだ。

「……神田」

 返事は返ってこない。けれど、話を聞いてくれるときの空気を神田が纏っているのがわかるから、ポニーテールの結び目にむかって、言葉を落としてゆく。

「この間は、…ごめん」
「似合わないって…わたしもわかってたんだけど。つい言い返しちゃって」
「ほんとは、ひとりで蕎麦食べてろなんて、思ってないよ」
「折角のクリスマスで……みんなも楽しみにしてて、…わたしも、すごく楽しみにしてて、だから」
「だから神田も、…神田にも、来て欲しいって。みんなもきっと、そう思ってるだろうし。…わたしも、そう思っ…」
「………靴が」
「え?」

 零れたみたいな神田の言葉が、わたしを遮る。
 キュ、と布の端が結ばれて、それでも掬うようにわたしの足に触れている神田の手は離れなかった。

「…靴が合ってねェんだよ」
「? 団服の?」
「違う」
「え、じゃあ……」

 あのヒールの靴のこと?尋ねる前に、神田が口を開く。

「どうせリナの奴にでも借りたんだろ。だから靴擦れするんだ」
「え……」
「任務でもねえのに無駄な傷作ってんじゃねーよ」

 足の親指と小指のそれぞれ外の付け根、骨が少し出っ張っているところ。間に合わせの包帯で隠れているけれど、アキレス腱のところ。それから、足の裏の、前のめりになった姿勢を支える部分。
皮が捲れたりかさぶたになっているところを神田の親指が触れるか触れないかくらいで確かめて、ハァ、と溜息が吐かれた。
撫でるような手つきは、わたしの心をすっと落ち着けてゆく。

「…うん、ごめん」

 そうだよね。わたし達はただ浮かれていいばかりの貴族なんかじゃない。エクソシストだ。傷は勿論任務に響く。大小に関わらず。

 わたし達が一番いい状態で働くことができるように、室長や、科学班のみんな、ファインダーのみんな、救護班のみんな、婦長、ジュリーさん。みんな、それこそ寝ないでがんばってくれてるのに。
 次の言葉が出て来なくてしばらく黙ってたら、神田が触れていた手をゆっくりと離した。

「………………麓の靴屋」
「え?」
「麓に靴屋があった。一番前の真ん中の、アレはお前に合うんじゃねェか」

 よ、と神田が立ち上がった。麓の靴屋??ここに降り立った時にいろいろ見て回ったけれど、特に印象がなく、頭の中を探る。靴屋靴屋くつや………あ、あの小さな、かわいい店構えの、

「か、神田!」

 団服を着なおし、立ち去ろうとする背中に「ありがと!」と、ぶつけるみたいに投げかけると、長い黒髪が滑らかに揺れて、振り返った、………と思ったら、キッと睨まれてしまった。反射的に、背中を仰け反る。

「行くなよ」
「エッ?!」
「どうせ行こうとしてただろ。そこで大人しく寝とけ。わかったな」
「は ハイ…………」

 ピシャリ、有無を言わさぬよう言いつけて、神田はそのまま部屋を去ってゆく。わたしの固定された右足も、自由に動く左足も、駆け出されることがないまま、ただ、出て行く背中を見ていた。
結局、わたしが次の任務先に出る前によった麓の靴屋では、恐らくわたしに合うだろうと神田が言った靴は売り切れてしまっていた。
その代わり、わたしが教団の人間だとわかった店主のおじさんが、これを、とプレゼントしてくれた靴で、帰ってから性懲りもなくダンスの練習を続けている。
今の所、最初に靴擦れをした以外は、概ね快適だ。

 神田は、わたしが任務を終えて本部に帰って来た時には既に別の任務に出かけてしまっていた。
 その間に食堂の飾りつけは終えられて、わたしの躓く回数も格段に減り、リナリーによる今朝からの髪のセットも完成し、あと5分もすればパーティが始まる。

 ――せめて、会いたかったな。
 神田は今何してるだろう。怪我をしていないだろうか。どこかひとり、でクリスマスの夜を迎えていないだろうか。
着飾った鏡の中の自分の瞳を覗きながら、神田の事ばかり、考えている。

 前髪をサッと整えて、肺の中の息をすっかり全部吐き出す。裾がひらひら翻るドレスワンピースや上げられた睫毛は何一つわたしの柄じゃないけれど、今日はクリスマスだ。ヒールのおかげで高くなった目線はいつものわたしと違うから、今夜だけはきっと違う自分でも許される。

 意を決して、食堂に向かおうと自室の扉から繰り出すと、廊下を向こうから歩いてきた、という風な、あの、わたしが、会いたくてたまらなかった人、が。視界の端に見えた。
 思わずそちらを向いて、声をあげる。

「か、神田………? 帰ってたの?!」
「うるせェ叫ぶな、聞こえてるから」

 駆け寄ると、神田は立ち止まって、面倒くさそうにあーあー、とわたしを宥めるかのごとく、距離を取り直した。「怪我とかしてない?!」それを気にせず更に近付いて、神田の腕のあたりをぺたぺたと確かめるように触れる。
 「してるように見えるか」、わたしの手を受け入れながら片方の口の端だけ上げて笑う神田はどこからどうみてもいつもの神田で、ほっと胸を撫で下ろした。

「そっか、そっかあ……」

 神田が怪我をしてない。神田が、ひとりでクリスマスの夜を迎えてない。今日もちゃんと、本部に帰って来てくれた。そのぜんぶに安心して、ゆっくりと距離を正す。

「来ないと思ってたから………」
「来いつったのは誰だよ。ホラよ」

 団服のままではあるけれど、神田がクリスマスパーティに参加しようとしてくれたことも嬉しくて、自分の両手の指先をおへその辺りで絡ませてたら、神田がずい、とその脇に抱えていた白い箱をわたしに押し付けるように差し出した。

「何? これ…」

 神田が何か持ってたことには気付いていたけれど、それは何か、例えばパーティに必要なものを運ぶためかな?と思っていたので、わたしに??ともう一度目線だけで訴える。
わたしが代わりに運んでもいいってこと?そう尋ねようとしたら、神田がその箱を開くように顎だけで促した。
開いても、いいの?

「今のよかマシだろ」

 ゆっくりとその蓋を開いて、驚いた。声も出せなかった。

「しょうもないモン履いて無駄な怪我すんなっつったろ」

 わたしが固まっていると、神田の声が頭上から降る。

 ……靴、だ。

 あの任務先の、麓の靴屋さんのだ。直感する。
 白い箱の中に、華奢なヒールのパンプスがお行儀よく並んで納められていた。
落ち着いたパールのような光沢をしてるそれは、誰かに足を入れられることを待ち望んでいるかのように見える。足首でクロスするデザインのストラップについている細かなビジューが輝いて、はやくはやく、とわたしを駆り立てた。

「……履いても、いい?」

 ゆっくり顔を上げる。

「他に誰が履くっつーんだ」

決まりきってる、という風に言ってくれるのが嬉しかった。

 そっと箱を胸に抱えて、慎重にパンプスを取り出し、その場にしゃがんで、できるだけ丁寧に床に置いて、立ち上がる。胸が高鳴った。こんな素敵な靴が、似合うって?きっと神田はデザインじゃなく、つくりが足に合うだろうと考えてくれたのだろうけれど、それでもたまらなく気持ちが舞い上がる。
 左足に重心を置き、右の靴から踵を抜く。そっとそのままつま先まで脱ごうとすると、「おい」と声をかけられた。視線を向けると、神田が手を差し出している。

 支えてくれるということなのだろう。何も言わずにそっとその手に自分のものを重ねると、そのままきゅう、と指先に力が込められる。
 ……なんだか、ほんとうにダンスに誘われたみたい。じんわりと熱がわたしの体から湧き上がってくる。けど、嫌じゃない。
 巻かれた髪も上がった睫毛も華奢なヒールも支えてくれる手も全部ぜんぶ、わたしの柄じゃないのに、どうして今日はこんなに素直に、心が受け入れられるんだろう。

「ど、どうかな……」

 両足をすっかりパンプスに差し入れて、立ち上がる。支えてくれてるままの手の指先に力を込めて尋ねると、神田はわたしの頭の先からつま先までを滑るように見て、チッと小さく舌打ちをした。でもそれはたぶん、似合ってないだとか、そういう類のものじゃないってわかる。だってこんなに、ヒールに慣れてないわたしにもわかるほど、足にぴたりと合っているのだから。わたしのために誂えられたみたいに。
だから、いつもみたいに憎まれ口を叩く気も起こらなかった。

「ありがとう、神田」

 少し照れくさくって、握った手の、もう片方の手で自分の肩のあたりの髪を指に絡めていると、少し何かを考えていたかのようなそぶりをみせた神田が、手をそっと離して、床に置かれたままの靴の箱を抱えなおし、そのまま背を向けて、食堂への道へ向かいだす。

「じゃーな、せいぜいウサギと仲良くやれよ」

 背中から投げられた言葉の意味がとっさに理解できなくて、頭の中で繰り返した。
ウサギ、うさぎ…ラビ? は、と思い出す。
そうだ、わたし、神田に嘘ついてた。ラビに誘われたって、そう言ってたんだった!

 わたしが考えてるうちに、すっかり距離ができてしまった背中を追いかける。
ちがう、違う。しょうもない嘘をついた自分にすごく、後悔してる。
 パーティに誘うなら、神田がいい。一緒にダンスを踊るなら、神田がいい。おめかしした姿を見てもらうのだって、一緒に、戦うのだって、神田がいいよ。笑いあうならそこに神田がいてほしい。誰かに大事にされるなら、そんな靴を履くのなら、大事にされるのは誰かじゃなくて――

「神田!!」

 ヒール5センチの前のめりはもうわたしの味方だった。
 ぶつかるみたいな勢いで神田の背中の服の裾を掴むと、神田が驚いたように少しよろけて、でもすぐに体勢を立て直した。

「待っ………て」

 靴の空き箱を抱えてないほうの、神田の手首を掴む。

「嘘なの」
「は?」
「ラビに誘われたっていうのは…嘘で…だから…」

 言い始めて、団服からむき出しになってる手首を掴んでるのが、だんだん恥ずかしくて、でもどこかに行ってほしくなくて離れてほしくなくってここにいてほしくて、神田の団服の袖の裾を掴んだ。顔が、見れない。
だけど。俯いたら神田が贈ってくれた靴がわたしの視界に映る。

 そうだ、今日はクリスマスなんだ。クリスマスだから、ちょっと浮かれてパーティをしたっていい。クリスマスだから、おめかししたっていい。慣れない靴だって履いてもいい。ほんのすこし、いつもより素直になったっていい。

 でも、神田の優しさは、クリスマスだからじゃない。いつだって、なんだって、神田は優しいから、だから、5センチ神田に近付いたぶん、わたしの気持ちだって伝わる気がする。

「ほんとは、ほんとはずっと、神田を、誘いたくて。神田と、踊りたかったの。ほんとは、わたし、神田を誘おうと思ってて、でも、いつも言えなくて、わたし…だから…、神田じゃなきゃ、だめで。わたし、神田のことが、ずっと………」

 ああ、もう、どうにでもなっちゃえ。
神田が好き。
そこまで言うつもりはなかったけれど、言葉の続きはそれ以外なくて、なのに言いかけた時、腕が引かれて遮られてしまった。
そのまま今までとは逆方向に歩き出した神田に引っ張られる形で着いて行く。掴まれた腕の力がつよくて振り解くことも立ち止まることもできない。

「か、神田? どこ行くの?」
「俺の部屋」
「えっ?! な、なんで、でもパーティーが… !痛、」

 急に神田が足を止めたから、ドンと勢いよく背中にぶつかった。かと思うと、掴まれた腕がぐっと持ち上がり、わたしが背伸びをする形で、背を曲げた神田との顔の距離が近付く。瞳の中の光がわたしを捉えて逸らさせない。

「……パーティなんざ俺とお前で充分だろ」

 返事をする間もなく、指先を掴まれなおして、また神田は歩き出した。ダンスの練習もフリルが翻るドレスも巻かれた髪も贈られた靴も、全部今日のためなのに、神田のものになってしまう。そんな予感が、わたしの鼓動をどんどん速めてゆく。

 クリスマスの夜はまだ、始まったばかりなのだ。

20xxxxxx / オートクチュール・ロマンティック