ひとつ、物分りが良いこと。ふたつ、涙をみせないこと。みっつ、わがままを言って困らせないこと。
 それが、アイドルの恋人であるためにわたしが決めたことだった。
 人気俳優が結婚を発表したというニュースのタイトルを見つけ、思わず指が止まる。人気絶頂の俳優のお相手は、一般人女性。彼らは長い間密かに密かに恋を育み、結婚に至った。完結に纏まった文章を更に画面をスクロールさせれば、ニュースを読んだ人達の感想が読める。お祝いのコメントを打つ人もいれば、もうファンを辞めると述べる人、まだ早いんじゃないかと言う人。1000を超える勢いのそれらを流し見していると、ふと一般人女性である彼女に興味を示すコメントが目に入る。『長きに渡って交際を隠すなんて、プロ彼女だなあ』、その”プロ彼女”という単語に興味を持ち、検索欄にプロ彼女、と入力した。
 プロ彼女とは?と一番最初に表示されたページを指で押さえて、スクロールする。彼女として……、特に芸能人の。それとして非の打ち所のない女性。なるほど、と付いていた頬杖の角度を変えようとしたとき、メッセージの着信を知らせるポップアップウィンドウが携帯に表示された。その相手を確認するより先に、今度は電話が掛かってくる。反射的にそれを取って、耳に押し当てた。

「まじ、ごめん!」

 もしもし?より先に謝罪の言葉が出てくるという事は、会えなくなったということだろう。申し訳なさそうな声で、でも精一杯謝ってくれる翔に、理由を尋ねずに「いいよ、大丈夫だよ」と答える。

「お仕事でしょ?」
「ごめんな、埋め合わせはするから」
「ううん、気にしないで、がんばって」
「サンキュ」

 電話越しに聞く翔の声は、実際に聞くより大人びて聞こえる。最近は、直接会うよりこうやって電話越しに聞く機会のほうが多くなった。ただ、メッセージだけで済ませることが少ないのは翔なりの優しさと、気遣いなのだろう。
 電話がかかる直前に送られてきたメッセージに返信するために、画面を開く。
「ごめん しごとながびいて行けなさそう」、急いで打ったのだろうか、変換が一箇所しかされていない。そんな中で電話を掛けて来てくれたことに、申し訳なさを感じながら、「がんばってね」というスタンプを返信した。できるだけかわいく、癒されそうなものを選んで。

 椅子の背もたれに完全に背中を預けて、周りを見渡す。木のぬくもりが感じられるこのカフェは、翔が行ってみたいと言っていたところだった。
 本来なら、予定通りここでランチをし、デートをしていたのだろう。待ち合わせの時間からは、いつの間にか1時間が過ぎている。
 氷が解けて薄くなったアイスティーをストローでかき混ぜながら、店員さんを呼んだ。ドリンク1杯で随分粘ってしまった。あんまり食欲はなかったけれど、忙しい時間帯にドリンクだけではあまりに申し訳ない。終わりかけたランチのメニューを借りたそばから、1番上に掲載されているパスタセットを頼んで、店員さんが去ったと同時に回りを見渡した。ここにいる人たちは、翔がこの店に来れば、その存在に気付いただろうか。翔の真向かいに座るわたしをどう思うだろうか。  考えて、やめた。通知連絡のない携帯を開いて、おもむろにネット通販で洋服を検索する。ほしい物なんてないが、暇潰しにはうってつけだ。かわいい洋服を見ている内に、気分も上がるだろう。

 少なからず、わたしは、安心していた。来られないのが事故とかではなかったことに。それから、翔が来られないことに。翔の隣を歩くのが怖いと思ったのは、いつからだろう?暑くも寒くもないのに、息がくるしい。




「まじで、こないだはごめんな」

 わたしの洗ったお皿を受け取りながら、翔がこの日何度目かの謝罪をする。そんなの全然いいよ、という返事はもしかしたら、流す水の音に紛れて、翔に届かなかったかもしれない。  最後にさっとシンクを流して、タオルで手を拭いていると、先に食器を拭き終えた翔が、ふいにわたしを後ろから抱きしめる。頬に翔の髪が当たってこそばゆい。

「翔」

 回された手が、わたしのおなかの前で繋がれた。絡まる黒い爪先が、迷っているように捏ねられ、抱かれた身体が強制的に、小さく左右に揺らされた。きっと翔は何かを言いたがっている。

「どうしたの」
「や、ちょっと充電」
「充電?」
「つぐみの匂いがするな~って」

 すん、とわざと大きな音を立てて、翔がわたしの肩口で息を吸う。なんだか恥ずかしくて、身を捩ってやだ、と返すけど、本気で嫌がっているわけではないのは翔もわかってる。から、その腕を解こうとはしない。

「落ち着く」

 こうしていると、わたし達はふつうの恋人の様だ。セットされた翔の髪がわたしの首元で形を変えるのを感じながら、思う。家に出入りする際に周りを警戒しなければならないこと。外で並んで歩けないこと。メールの登録名を変えること―…密かに、隠れてする恋愛はきっとふつうではない。

「しばらく、」

 捏ねられていた指先にわたしも手を重ねると、翔が口を開く。

「ロケに出るんだ。だから、また会えないと思う」
「そっか。翔、がんばってきてね」

 ドラマか、映画か、バラエティか。聞かずに、ただただ応援の言葉だけを翔にかけると、それが不満だったのか、肩口の頭を持ち上げて、翔はわたしの顔を覗き込んだ。

「………寂しくねーのかよ」
「寂しいよ、もちろん」
「…おう。じゃあ、じゅーでん、な」

 腕が解かれて、お互い正面に向き直ると翔はわたしの後頭部にそっと片手を回した。それから、ゆっくりと顔が傾きながら近付いて、唇が重なる。
 ふわ、と翔の香りが色濃く鼻を掠める。香水が消え去った後の、紛れもない来栖翔のかおりだ。
 翔の匂いが、とくとくと伝わる心臓の音が、この恋が普通であってほしい、と望ませる。

「もっかい、」

 唇が離れて、でも翔が目を細めてまた近付いた。その優しい体温を受け入れながら、充電、は誰の為だろう?と思う。 翔は優しい。だからきっと、これはわたしのためだった。

 翔の落ち着く場所でありたい、と思う。部屋の香りだとか、入浴剤だとか、そういうものを始め、過ごす時間だとか、そういったものを、慎重に選んでいる。翔がここに来たいと、思ってくれるように。ここにいる間はただの、ふつうの、翔でありますように。

 後頭部に回った手はそのまま、もう片方がゆっくりとわたしの腰を撫で、そっと服の中に侵入する。呼吸の仕方がわからなくなって、唇を開いたらぬるい舌がわたしのそれを絡め取った。息ができなくて、くるしい。
 画面の向こうの「来栖翔」はいつだって寂しさとは関係ないような笑顔で、輝いている。



 ふとつけっぱなしにしていたテレビが、お昼のワイドショーの生放送に変わった。司会者に紹介され、拍手の中笑顔で出てきたのは誰でもない、翔だった。長期のロケと言っていたけれど、合間で生放送にも出ているのか。日焼けした頬は少し痩せたようにみえて、きちんと食べているのか心配になる。
 来栖翔、という名前を聞けば、全く知らない、という人が減ってきた。購入特典にイベントを付けなくても、写真集は売れるようになってきた。イベントやコンサートは、当たる確立が減ってきた。
 リアルタイム検索で来栖翔、と打つと、生放送を見ている人の呟きを見る事ができる。 いろんな人を通した翔は、わたしのしらない風に生きているようにみえた。たくさんの人が、翔の心臓を動かしている。
 翔は階段を駆け上がっていく。喜ばしいことだった。それが翔の夢なのは、知っている。けれど、心のどこかで、喜べないわたしがいる事にも、気付いていた。
 ”プロ彼女”。どこかの誰かが作った言葉を思い出して、呼吸が浅くなる。
 翔は、プロだ。絶対にスポットライトの中で笑顔を見せる事を諦めない。じゃあ、わたしは?
 翔は、ほんとにわたしがすき?
 テレビの電源を切る。でもハードディスクを録画するのをやめないから、どうしようもない。完全に切り離すのは、怖い。わたしの知らない翔が増えていくのが怖い。
 アイドルの翔の心臓も手に入れたいだなんて、おこがましい。



 帰宅するのが随分遅くなってしまった。ヒールの音が静かな階段に響く。登りきったところで、自分の部屋の扉の前に誰かが座り込んでいるのがわかった。  ひゅっと心臓が縮こまる。怖い人だったらどうしよう。心当たりはないけれども、一応1人暮らしの女だ。なにかあったとしても―…その、なにか、の中身を想像して、肝が冷える。
 翔。
 反射的にズボンのポケットにある携帯に手が伸びたものの、一瞬止まる。
 こんなくだらないことで、翔を困らせちゃいけない。
 翔は優しいから、何もなかったら絶対に飛んできてくれる。来れないにしても、心配してずっと電話してくれたり、とにかく優しさの限りでわたしの不安を取り除いて、身を案じてくれるだろう。

―………でもそれって負担じゃない?

 とにかく、お母さんか、お父さんか警察…と、止まった手を動かしたところで、座り込んでいた人物がわたしに気付いて片手を上げた。深夜に配慮した控えめな明かりの下、目を凝らせばそれは良く知った人だった。

「よっ」
「…………翔?」
「お前いつもこんな時間に帰ってくんの?遅すぎ。これから連絡しろよ」
「え、でもなんで」
「なんでって、会いに来たんだっつーの」
「でも誰かに見られたら…」
「ちゃんと確認したって。大丈夫だから」

 急いで鍵を開けて、話しながら翔を扉の中に押し込んだ。鍵を締めてしまう前に、顔を覗かせて、車や人通りがないか確認する。帰宅する際、車とか、人通りとか、なかったから大丈夫だとは思うけど、翔が来るとは思わなかったからわたしもそれほど警戒していなかったし、どこに誰が潜んでいるのかわからない。もう一度見渡して、やっと扉を閉め、鍵をかける。
 虚しい。
 ショートブーツを脱ごうとしている翔の、その背中に、いちばんに飛び込んでしまえないところが。パンプスの足首のストラップを外しながら、安堵とか、虚しさとか、そういういろんなものが交じり合って泣きそうになるのを堪える。翔に涙を見せたくない。
 リビングのソファに腰掛けた翔にお茶を入れようと台所へ向かおうとすると、いいから、と遮られてしまった。こっち、と手招きする翔は戸惑うわたしと正反対に、なんだか楽しそうな笑顔を浮かべている。

「こないだロケ行くっつってたろ?お前の好きそうなのいっぱいあったからさ、」

 翔は鞄の中から紙袋を取り出して、その中身をひとつひとつわたしとの間に並べていく。

「まずキーホルダーだろ、このキャラな~んか、お前に似てると思ったんだよな。それから、神社があってよ、うさぎのかわいいお守りあったから、買ってきた。願いが叶うって、かわいいし、女子の間で人気らしいぜ。そんであと、まんじゅう。好きだろ?試食したらうまかったし、好きだと思って。あと飴細工の店も行ったんだ。これ、すげーかわいくてさ、…」
「ま、待って翔」
「ん?」
「お、多すぎない…?」
「多いくらいがいいかと思ってよ」
「どうして?」
「お前、最近元気なかったろ?」

 な?と言いながら、翔が、一番最初に取り出したわたしに似ているらしい、へんなかおの、でもどこか愛らしいうさぎだか人間だかつかないキャラクターのぬいぐるみの形をしたキーホルダーを手に取って、わたしの手の平に乗せた。そのまま握らせるように、包み込む。

「ちょっとでも、元気になってほしくてさ」

 やさしい笑顔で、翔が言って、続ける。

「っつーのはカッコつけで、最近約束すっぽかしてただろ?それのお詫びも兼ねてっつーか……ま、ほんとにお前が好きそうなのいっぱいあるなーって思ったんだよ。お前のこと考えてたら、気がついたらいっぱい買ってた」

 熱いものが込み上げてきて、困った。さっきは堪えたっていうのに、目の淵に、ぬるい水が溜まる。悟られたくなくて、キーホルダーを握らされた手に目を向けたままでいると、翔がそっとわたしの頭を包み込んだ。

「ごめんな」
「翔が………どうして、謝るの…」

 どうにか出した声は震えていて、悟ってくれるなという願いは叶わなかった。けれど、翔の腕は依然として優しいままわたしを包んでいる。

「お前、俺の前で泣こうとしないから」

 腕の中で頭を振ると、翔が腕を解いて、わたしの額と自分のそれをくっつける。化粧、崩れてる。気になって目線を逸らすと、大丈夫だよとでもいう風に翔がわたしの頬を両手でそっと包んで、親指で目元をゆっくりと拭った。

「翔、に……わがままを、言っちゃだめだって」
「なんで?」
「嫌われたくなくて…わたし、ふつうのひとだし、何もできないし、負担になりたくなくて、そしたら、翔の隣を歩くのが怖くなって、なのに…さみしくて、」
「あのなあ、そういうのは言えよ。俺、頼りにならないほど弱い男のつもりねーぞ」

 ああ、ダメだ。プロじゃない。こんなのは、困らせてしまう。そう思うのに、堪え切れなくて、わがままなわたしの言葉と一緒に涙が零れた。なのに翔はどこか嬉しそうな、愛おしいものをみるときの顔をしながらわたしのそれを拭う。

「なーんか最近、物分り良すぎると思ってたんだよな」
「ごめんなさい…わがままだよね」
「わがままでいいよ。甘やかさせてくれよ」

 今度は力強く、ぎゅっと抱きしめられて、手に握っていたキーホルダーがカタンと音を立てて床に落ちた。翔のシャツの肩口に、零れた涙が染みてゆく。それでも、翔は腕を解こうとしない。

「お前の我侭が、嬉しいんだ。俺は」

 腕に力が込められる。だから遠ざかろうとしないでくれよ、と言っている風に聞こえた。翔にとって、落ち着く場所。そう思ってたのに、翔を遠ざけてたのは、落ち着かなくさせていたのは誰でもないわたしだった。こんなに近くにあろうと、一生懸命に気持ちを注いでくれていたのにも気付かず、それを拭い取るような真似をしていたのは、わたしだ。

「翔が好き……」

 たくさんのごめんなさいの代わりに出た言葉は、優しいキスで奪われる。忘れていた呼吸を注ぎ込まれて、身体が軽くなってゆく。 翔がいないとダメだ。翔がいないと。いないと、息も、できなくなる。
 胸に沿わせた手から、心臓の鼓動が伝わる。同じになりたくて、だけどなれなくて。でもその度に教えてくれる呼吸が、わたしのわがままや涙を溶かしてゆく。どんどん離れられなくなるよ。わたしがそう言うのがわかってるみたいに、翔は離れようとしない。

20xxxxxx / アガパンサスの咲く揺りかご