何も気付いていなかった。警戒なんて、以ての外だった。
作戦室を後にする背中を席も経たずに見送った後しばらく経ってから、ようやく瞬きをする。ぽかんとくちびるを開けていたままだったのにもようやく気がついて、なんとか適当に声を出すと、それはとても能天気そうに作戦室に響いた。
ああ、よかった。まだくちびるは顔に無事、付いてるみたいだ。
声だって、出せる。忘れていた呼吸の仕方を思い出しながら、そういえば、明日の数学は当てられるな…だとか、次の防衛任務のシフトは…だとか、核心に触れないように、考え事を脳内に詰め込む。
そうでもしないと、荒船の、いつもより近くで感じた匂いとか、熱とか。そういうものですぐに頭がいっぱいになりそうだったのだ。
荒船に、キスされた。
村上くんから返ってきた英語の小テストには、細いペンで遠慮がちにバツが沢山書かれていた。後半になるにつれてバツが小さくなっているのは、せめてもの優しさだろうか。くっつけていた机をほんの数センチ、元に戻るために離しながら、「ヤバいよね……」と声をかけてみる。
「珍しいな」
「う…フォローありがとう」
「考え事でもしてたのか?」
村上くんと隣の席になってから、英語の小テストはこれで2回目だ。毎時間、授業が始まる前に行われるそれは、ただただ日本語訳を20問書かれた問題の隣の欄に英単語を書いていくだけで、範囲も決まっており、暗記さえすれば満点をとることもさほど難しくはない。のにも関わらず、この点数である。
「考え事、ねえ……」
荒船は、どうしてわたしにキスをしたと思う?
村上くんは、荒船の弟子だったし、お互いの事をよく知っているしそれになにより小テストもマルばっかりだったから、ぴったりの答えを知っているかもしれない。けど、こんな事聞けるわけがなかった。
「………来週はがんばることにする」
「…あぁ」
テストを提出したら、何事もなかったように授業が始まる。先生が流す英語の文章を日本語に訳しながら、答えが出るほうがずっといい、と思う。解釈によって意味が変わるというのは、難しい。数学やさっきの英単語のテストみたいに、答えが、決まっていたら。
荒船は、どうしてわたしにキスをしたんだろう。
まずは状況を考えろ、というのはこないだランク戦を見て貰った時の東さんのアドバイスだった。
状況を考え、適切な判断を下す。
あの日の作戦室は、荒船とわたしのふたりきりだった。いつもみたいにお互いの学校の話を、していた、と思う。
勿論わたし達は付き合っていない。ただのボーダーの仲間だというには、少し仲がいいだけで。
あまりにも起こった出来事のインパクトが大きすぎて他の事が曖昧になっていたけれど、冷静になってみると案外思い出せるものだ。他人事のようにしていれば核心から目を背けられるからかもしれない。
一体わたしたちの会話の何が、荒船のトリガーを引いたのだろうか。
もしかすると、ドッキリなのかもしれない。嵐山さん達が受けるようなボーダー密着テレビに、なぜかこのわたしが選ばれ、キスされるとどうなっちゃうんでしょう かっこ笑い、みたいなカメラが、未だにわたしを追いかけているのかも…、というのはありえないけれど、例えば犬飼くん辺りに、唆されて、罰ゲームでやった、とか。わたしの反応を見て、からかっているのかもしれない。
それか、ただの、冗談。なんとなく。気まぐれ。
あとは、荒船は映画が好きだから、外国人の挨拶に憧れてしてみたらミスってくちびるにしちゃった!とか。
あとは、あとは…荒船はわたしがすき、とか。
………いや、ありえないな。
英文の訳が終わって、シャーペンをノートの上に放り投げるように置く。
どれもありえないけれど、一番最後のは特にありえない。ありえないんだ、けど…背中が熱くなるから、思い出さないようにしていた、もやがかかったままの荒船の、においは、あの空気は、熱、は。
…そもそも荒船が、冗談で、あんなことをするわけがないのだ。それくらいは知っているつもりで、理解し合える仲の、はずだ。
もしも、ほんとうに、わたしがのん気に荒船を友人だと仲間だと、信じている時に、荒船はわたしをそういう対象…と、して、見ていたの、だと、したら。
わたしと荒船は、仲間だと、信頼し合える仲間だと、同じ街を守り同じ道を進む仲間だと思っていた。ただそれ以上でも以下でもなかったと、思っていたのに。荒船にとっては、そうじゃなかったの?一体いつから?
わからなくて、ノートを破りたくなる。これだから苦手なのだ。英訳は、一文目から間違っていた。
ラウンジの奥、テーブル掛けの席をひとりで占領して、数学の課題をこなす。放課後すぐ、学生組が本部に集まるこの時間帯は、みんな模擬戦に花を咲かせていたり、作戦室に篭っておしゃべりをしているからラウンジの人はまばらで穴場なのだ。
勿論、わたしだって他の隊員が来る頃には作戦室に向かって、今度のランク戦について話したりするつもりだ。
作戦室でひとりになるのを、避けているわけじゃない。荒船が来るかもと思っているわけじゃ、ない。
そう、数学の宿題が多かったから、適度に騒がしいほうが集中できるから――…と理由をつけていると、向かいの椅子をだれかが引く。
顔を上げると、―…荒船がいた。
「よォ。ここ、いいか」
「……あ、えーと、いい、けど。うん。ドウゾ」
「…………」
「…………」
荒船は片手にコーヒーだろうか。紙カップを握って、身体を開くようにして向かいの椅子に座っている。手ばかり見ているから、どんな顔をしているのかわからない。
「………」
「……あ、わたし、あの、そろそろいくね。こっち、ソファ席だから、よかったら座って。座り心地いいし」
「どこ行くんだよ」
荒船が口を開くと、わかりやすくわたしの肩が跳ねる。とにかくここから離れたかった。荒船が何かを言うのが怖かった。ペンケースにも入れないまま、急いで鞄に詰め込もうとしたシャーペンが手から滑り落ちてテーブルの上を転がってゆく。荒船がそれを掴む。
「…あ。……りがと」
「…逃げんなよ」
受け取るために出した腕が引かれて、すぐに少し押される。それに従って、勢いのままソファ席に軽くしりもちをついた。
全く痛くなかったのに、眉尻が下がって、まるで痛いことされたように、荒船を見てしまう。久しぶりにみた荒船は、わたしとおんなじように、居心地が悪そうな顔をしている。
「……なんつーか…悪かった」
居心地の悪そうな顔で荒船が口にしたのは、謝罪の言葉だった。
キスのことだ、と理解したわたしは何故かほっとする。
荒船が謝るのなら、じゃあ、わたしたちの仲で、あれは間違いだったのだ。
「…もう荒船と話せないのかなっておもった」
「は?」
「だって、…だって、ほんとに、頭いっぱいで、こないだの英語のテストなんか、村上くんに苦笑いされるくらい悪くて、」
「ちょっと待て、なんでそこに鋼が」
「隣の席だし」
「聞いてねえ」
「い、言ってないもん」
「言えよ」
「何で」
ああ、ふつうの、いつも通りの荒船だ。嬉しかった。ひどく安心する。
荒船ともう話すことができないなんていうのは、わたしにとってとても悲しい事なのだ。
そうだ、あのキスは、冗談に、してもらおう。冗談だとか、罰ゲームだとか、そういうものにしてしまえば、わたしたちはまた笑い合える。
「荒船、わかった。あの…こないだの事は、冗談にしよう」
わたしが言うと荒船がぴくり、として、向き直った。
「冗談であんな事するわけねえだろうが」
ぴしゃりとした言い方は、濁すつもりもごまかすつもりもないと示す。
荒船は、荒船の意志でわたしにキスをした事を、冗談にする気がないのだ。
そんなの、…こんなの、もう、好きって、言ってるようなものじゃないか。それくらい、わかるよ。
ありえないと思っていた、そうであれと願った過程が真実だと口にされて、背中が熱くなる。鼓動が、速くなる。悪かったという謝罪は、わたしの気持ちを考えずにしたことに対するものだろう。
キスに対してじゃない。
荒船は、あれをなかった事にしてくれない。もう逃げ切れっこない。ここで逃げたら、きっとほんとうもう、話すことができなくなる。
「……やっとこさ手に入れたポジションを手放してたまるか、って…思ってたのによ。つい…いや、ついじゃねえけど」
何にも言えないでいると、荒船が呟いた。
「こんな風に言うつもりじゃなかったけど、俺はお前の事が好きだ」
なかったことには、ならない。
荒船は、わたしを見ているのだろう。その瞳をどんな風に受け入れればいいのかわからなくて、わたしはテーブルの上で自分の両手をぎゅっと握って見つめたままでいた。視線が交わらない。
「謝ろうにも作戦室にはいねーし、どっかうろうろしてやがるしおまけに鋼と隣の席になんてなってやがるし…、学校違う上に避けられるとほんとに会えねーんだな。…焦った」
目の淵が熱くなる。焦った、と言った荒船の声が、すごく寂しそうに聞こえた。
ぐっと心臓が掴まれる。焦る?荒船が?わたしに避けられて?自分の気持ちを包み隠さずにぶつける荒船に、どうしようもなく、触れてみたいと思った。一度も口を付けられていない紙カップは、わたしに話しかける口実のためだけに買われたんだろうか。
…どうしよう。荒船に、触れたい。どんな熱を持っているのか、知りたい。荒船が寂しそうな顔をしてるというのに。どうやったら、そんな顔をやめてくれる?触れたら、やめてくれる?
荒船もわたしにキスしたとき、こんな気持ちだった?
震える両手をゆっくり、荒船の、テーブルの上に置かれている左手に重ねた。
「荒船、ごめん」
手が触れた瞬間、荒船がぴく、と動いて、わたしの言葉を聞いた拳はぎゅっと握られる。あ、あ、ちがうの、ごめんって、そうじゃなくて。そうじゃないよ。
今にも席を立てそうな荒船をつなぎとめたくって、手に力を込める。
「あっ!ちが、違うの!!ごめんねっていうのは、わたしが、荒船の気持ちをわかってなかったから、だから、たぶん。知らないうちにたくさん傷つけただろうなって、それで、だから、ごめん」
「別に…気付かせるつもりもなかったし」
気付いちまえとは思った事もあるけど。続けられた荒船の言葉に、触れてる手が熱くなった。
兎に角、席を立たないでくれて安堵する。おねがいだから、どこにも行かないで。
「あの、でもね」
顔をあげて、横顔を見つめる。荒船がこちらを向いたときに、視線が交わるように。逸らさないように。
固く握られた左手の指の隙間に、自分の指を滑り込ませて、ゆっくりと解いた。
こんなに力を込めて握らせた理由がわたしなら、おこがましいけれど、解くことが、わたしになら、できるかもしれない。
「わたしね、すきになるなら…荒船しかいない、と、おもう。の」
解いた手の指先をきゅっと握る。ああ、手のひら全部覆えないくらい、荒船の手は大きかったんだな。わたしはずっとそれに気がつかなかった。
この手がわたしに触れる時、いつも熱を持っていたのだろうか?わたしを想って、こんなにあつくなる?
「荒船から言われて気付くなんてすっごくすっごくゲンキンだし都合も調子もよすぎるし単純かもって思われるかもしんないんだけど、でも」
声が震える。心なしか、目が潤んでいるような気もする。それでも逸らしたくない。荒船が、こちらを向いてくれるまで。
「荒船しか、…荒船しか、荒船じゃなきゃ、だめだとおもう、わたし…ぜったい」
力強い言葉が必要だとおもった。
でないと、返せないと思った。
どんな気持ちで荒船はわたしのそばにいてくれて、すきでいてくれて、キスして、わたしを探して、今日声を掛けてくれたのか、考えると、荒船じゃないとだめだと思った。荒船がくれた気持ちを返したいとおもった。荒船にあんな顔をしてほしくなかった。こんな風に拳を作って欲しくなかった。
こっちを向いてほしいよ。
自分勝手なその言葉がうまく出なくて、指先をぎゅうぎゅう握っていたら、急に手が解かれて、今度はわたしの両手の指先が荒船の左手でぐっと握られて、ふうっ、と息を吐きながら荒船が椅子にきちんと座りなおした。
視線が交わる。荒船の瞳って、こんなにきれいだったんだ。
この瞳が、わたしを今まで見つめていたのだ。
「…それは…付き合うっつーことでいーのかよ」
「えっ?あっ…そっか、そうだよね、うん、そう。…わたしでよければ…」
「そりゃ俺は願ったり叶ったりだけどよ」
わたしが指を動かしたら、荒船がまた優しくそれを包む。嬉しくなって、頬が緩んだ。
「わたし…まだ、その 荒船がすきでいてくれたぶん、お返しできないかもしれないけど」
「んなモンわかってら。…他の男に取られるかもって思わなくていいだけで充分」
荒船でも、そんな風に思ったことあったんだ。緩んだ頬が、熱を持つ。
「好きにさせてやっから覚悟してろ」
「お、…お手柔らかに…」
「するわけねーだろ。いままでの分思い知らせてやるからな」
荒船が、嬉しそうにケタケタと笑う。こんな気持ちは初めてだった。指先だけじゃなくてぜんぶで触れたくなる。笑ってくれて、嬉しくなる。そんなはじめてのきもち。
これからもずっと、荒船が教えて欲しい。荒船だけが、わたしに。
20xxxxxx / お望みのままに与えよう