良い子だなあ。初めて会った鯰尾にそう感じたのも、もう随分前の事だ。今思えば何百年も前からこの世を見ている神様に対して良い子、だなんて失礼な話だけれど、鯰尾なら許してくれるだろうと思うのもまた事実なのだった。
 鯰尾はまず、見た目が年上すぎたり、年下すぎたりしなくて話しやすい。少々軽口を叩くことはあるけれども、与えられた仕事には一生懸命で、殊更兄弟の世話に関しては真面目だ。まだ審神者という立場に慣れないわたしが好感を持たないはずもなく、近侍をお願いしたのは言うまでもない。

 そのかみさまに、近侍を外してほしいと頼まれた。
 畑当番や馬当番は日替わりだが、近侍はそうでない。この本丸の顔が鯰尾になって随分経っていたから、その申し出には驚いた。

「…どうして?」

 その日は遠征部隊が丁度帰ってきた日で、机に向かいあって報告書を作成していたはずだ。鯰尾のその突然のお願いに、わたしは持っていた鉛筆の手が止まったのをよく覚えている。

「本丸の刀も増えてきたじゃないですか。だから、俺ばっかり近侍なのは、どうかな~って思ったんです」

 ほら、乱とか、秋田とか、兄弟たちが、羨んで仕方ないんですよね。口元に笑みを浮かべてそう続ける鯰尾の手は同じく報告書を完成させるために動きっぱなしで、だから、余計に、……こんな感情をもつのは間違いなのかもしれないけれど……、寂しくなった。鯰尾にとっては、なんでもないことなんだと。
 もちろん、近侍を日替わり制にしているところの話も聞くし、鯰尾以外の刀たちだって一生懸命に仕事をこなしてくれるだろう。あるいは、もっと効率がよくなるかもしれない。けれど、けど……わたしはこの時間が、鯰尾と話す時間が、大切だったのに。

「勿論、仕事は手伝いますよ。主さんが報告書を溜めてたら大変だし」

 机にばかり向き合っていた顔が急に上げられる。ニッと歯を見せて笑った鯰尾に、わたしはまったく目が合わせられなかった。
 鯰尾の提案は、尤もなのだ。
 粟田口の兄弟だけでなく、他の刀たちにも頼むことで得はすれど損することはない。覚えてもらう仕事は多いほうがより良い事などわかってる。鯰尾だってそう考えての提案だろう。ほんとうは、頭の良いかたななのだ。
(だけど……………、)
 戸惑いが思考力を鈍らせる。頭ではわかっていても、うまく笑えなかった。

「だから、ね。俺の兄弟たちに機会をくださいな。まあ、ものは試しですよ」
「試し…」
「そうそう」

 そう言ってやはり笑いながら、鯰尾がまた黒々とした瞳を報告書に落とす。どうあっても受け入れるしかなさそうだ。
 なんといっても、信用しているかみさまからの提案だ。
 ――他のおねがいなら、なんだって聞いてあげたいのに。
 寂しさは胸を蝕んで、結局なんとかいつもの倍の時間が掛かったものの、報告書は完成させられた。



 午前中ずっと降っていた雨が上がり、本丸では蝉が静かに鳴き始めている。期待ほど気温は下がってはくれなくて、じんわりとした湿気が皮膚を纏った。またいつ夕立が来るのかわからない。溜まった洗濯物を前に歌仙と苦笑いを交わす。
 一体、なにをしようか。夕飯までぽっかりと空いてしまった、何かをするには短い、けれど何もしないでいるには長すぎる時間をどうするか考えあぐねて所在なく本丸を歩く。途中ですれ違った今剣に団扇をもらった。和紙でできたそれは夏野菜の絵が描かれている。今日まるいちにちをかけて鶴丸と一緒にこさえたそうだ。
 団扇を脇に抱える。今剣以来誰とも出会うこともなく、もう自室に戻ってしまおうかと廊下を歩いていると、脇差の部屋の、奥の襖。まだ誰の部屋にも割り当てられていないそのまっさらな畳の上に、鯰尾が眠っている姿が見えた。
 ほとんど反射的に、部屋を通りぬけ近付く。よほどぐっすり眠っているようで、起きる様子が見えない。
 外とはひと部屋隔たれているせいか、風通しがあまり良いとは言い難いこの部屋はすこし寝苦しそうだ。鯰尾のそばに腰を下ろして顔を覗きこんだら、身体に寄り添うように流れている髪とはべつに前髪が数本、しろい額に張り付いているのが見えた。

  触れたら…起きてしまうだろうな。
 そう考え、もらった団扇でゆっくりと風を送った。身体全体に行き渡るように、できるだけやさしく、よい夢を見られますように。そう願いながら。

 なんて美しい寝顔なのだろう。ふさふさと揃った長い睫毛が瞼を丁寧に縁取っている。すこし開いた薄い唇だって瑞々しく、その呼吸と共に上下する胸の規則正しさは思わず見入ってしまうほどだ。その端正なつくりを、側にいてくれていたときは、……あんまり、気付かなかったな。
 気付かなかった事は、他にも沢山ある。それこそ、鯰尾が近侍を外れたがっていたこととか、あと……、意図的に、あの日から鯰尾がわたしを避けていること、とか。

「鯰尾」

 気付いたのは、いつだったろう。戦で誉を取っても側に来なくなったのは? 主、とあのきらきらした笑顔で呼んでくれなくなったのは、一体いつから。

「……わたしのこと……きらいになっちゃった?」

 起きてるときに尋ねると、答えが返ってくるから怖い。弱虫なわたしは一方的に抱えていた疑問を投げつける。
 新しい畳の匂いは鯰尾が来た頃の事を思い出させた。台所から漂うおそばを湯がく香りも鯰尾とはじめて料理をした記憶を思い起こさせる。団扇に書かれた夏野菜だって、鯰尾が兄弟たちと率先して苗を植えてくれたものだ。

 きらわれたくない。鯰尾だけには。

 それが、審神者としてひとつのかたなに向けるには大きすぎる感情だということにもこうなってからやっと気付いたのだ。

 口に出してしまえば事実となるようで、じわ、と目にぬるい水が溜まる。風を送る手を止め、なんとかそれを溢さないように、すん、と鼻をすすった。泣くのも下手なんて、鯰尾がいないとほんとうになんにもできないなあ。団扇を持った手と反対の手の指先で、端に溜まった雫になりきれないそれを抑えようとした時だった。その手がふいに掴まれる。反射的にびくついた肩に、抑え切れなかった涙が落ちた。

「………え」
「あ…………………」

 かち合った視線はすぐに逸らされ、掴まれた腕も解かれてしまう。宙ぶらりんになった手は再びわたしに触れられないまま、起き上がった鯰尾の後頭部に行きつき、誤魔化すようにその髪を掻いた。

「いや……あの、寝てたフリをしてた、とか…ではなくてですね………」
「え、うん…?」
「機会を失ったといいますか…………」

 もにょもにょと鯰尾はいろんな言葉を捜して、それを口の中だけで噛み潰しているようだった。言葉は届かないし、視線も交わらなくても、ただ鯰尾と会話しているだけで嬉しくて、ぎゅっと胸の奥が掴まれる。いいよ、いいのなんだって。わたしとまた話してくれるなら。言いかけて、でも言えなくて目だけで訴えていると鯰尾が口を開く。

「誤解はしてほしくないんですけど」
「?」
「嫌いになんかなってなくて、…なるはずがなくて。ただ俺の問題というか」
「鯰尾の?」
「ええ。…どんな顔していいのかわかんなった、から」

 目的地を定められないまま投げ出された言葉の、”きらいではない”というはっきり意味のわかる部分だけがわたしを安心させた。
 もう瞳を見つめることが恐ろしくなくなって、下から鯰尾を覗き込む。かちりと視線が合うと、鯰尾は額をわたしの左肩に預けた。鼻先が髪に触れてくすぐったい。

「独り占めしたい、って言ったら主、困るでしょう」

 おでこを肩にくっつけたまま、鯰尾が言う。

「泣かせてごめん」

 丸くなった鯰尾の背中に、腕を回したくなった。近づきたい、触れたい。歯止めが利かなくて、心のままそうして、きゅっと服を握り鯰尾のからだを抱き寄せる。わたしのひだりむねの音が聞こえるといいなと思いながら。

20xxxxxx / 火花を纏って生まれたら