はっきりと見えなくてもわたしには、向こうの廊下にいる男の子が誰だかわかってしまう。
 それほど、彼は特別なのだ。
 視界の端で沢村くんがクラスメイトであろう女の子と話している。くすくすとその女の子のリボンが楽しそうに揺れるのを盗み見ながら、腕に抱いたノートの束を持ち直した。社会科準備室まではあと少しなのに、足取りが重い。

「先輩!」

 きっと、気付かれない。そう思っていたのに、弾むような声が耳に届く。顔を向ければ、沢村くんはわたしに向かって駆けてきていた。「沢村くん」、まるで始めて気が付いたかのように装った笑顔の端っこに、さっきの女の子が立ち去る背中が見える。ああ。

「昼休みなのに、どうしたんスか?それ」
「4限目が日本史で、課題が出てたから。クラスの子の、運ぶところ」
「へ~……じゃ、俺も手伝います!」
「いいよ、すぐそこだし」
「いやいやそんな、先輩に仕事させるなんて野球部だったらローキックもんですよ」

 よいしょ。するりとわたしの腕を抜けて、30人分ほどのノートが沢村くんの腕に移った。ごめんね、の後、ありがとうと口にすると、沢村くんは嬉しそうに、白い歯を向けて笑う。眩しい、曇りのない笑顔。それを作る事に、沢村くんは1秒だって躊躇しない。

「先輩と、こうやって歩くのってなんか久しぶりな気がする」

 ノートを抱えた沢村くんの隣を後ろで手を組んで歩く。沢村くんを思い出す時はいつもシャツとズボン、それかユニフォームとか、ジャージだったから、春という新しい季節も相俟ってか紺色のブレザーはぐっと大人びて見えた。そういえば背だって伸びた気がする。きっとわたしが瞬きしている間に、沢村くんはどこへだって行けてしまうのだ。

「先輩、あん時も荷物運んでたから」

 今は彼氏として笑顔を向けてくれていても。
 沢村くんとは、冬のはじめくらいから付き合っている。きっかけはひょんなことだ。職員室へ運ぶプリントをわたしが廊下にばら撒いてしまい、拾ってくれたのが沢村くんで。その時は名前も言わず去ってしまったけれど、野球部だと分かって、名前を教えてもらって。沢村くんもわたしを少しだけ覚えてくれていて。廊下で会えば手を振って。そういう些細な事を、小さな時間を積み重ねてきたのだった。



 社会科準備室は廊下の端にあり人気がなく、掃除はされているはずなのに随分と埃っぽい。ここに入るのは珍しいのか、沢村くんはすん、と鼻をすすりながら、キョロキョロと周りを確かめている。それを目で捕らえつつ、壁に掛かった時計を盗み見た。
 昼休みが終わるまで、あと12分。電気を点けなかったせいで薄暗いからか、窓が擦りガラスになっているせいか、廊下の騒がしさからここは隔離されてるみたいだ。音を立てないように慎重に、後ろ手で扉の鍵を閉める。

「この辺でいいっすかね」
「うん、ありがとう」


 …一体。恋をしたらおんなのこはかわいくなれる、だなんて誰が言い出したんだろう?


「沢村くん、ノート、重かったよね。ごめんね」

 ノートの束に両手をついていた沢村くんの左手に触れる。それから、わざとゆっくり、見せ付けるように恋人繋ぎの形へと指を絡めてゆく。沢村くんは、一瞬「先輩?」と不思議そうな声でわたしを呼んだけど、その手はわたしに委ねてくれている。
 この人は、私を受け入れてくれている。
満足感とか、征服欲みたいなのが、満たされていく。慈しむように親指で沢村くんの手の甲を撫でた。吐いたわたしの溜息が熱い。拒否されない。されるはずがない。どこからか湧いてくる自信で跳ねる心臓を隠すように、口を開く。

「沢村くん、知ってる?」
「え?」
「ファーストキスって、レモンの味がするんだって」
「へー……」
「ね、試してみよっか」
「え!??? そ、それはどういう…」
「キスしよって意味」

 「いや、ちょ ここがっこ」う、と沢村くんが言いかけたのと同時に繋いでいた左手をぐい、と引っ張った。油断していたのか思ったより簡単に沢村くんの姿勢が崩れたのをいいことに、下から救い上げるみたいに唇を合わせる。
 歯と歯がぶつかるかと思ったけど、案外そんなことはなくて、むに、と沢村くんのくちびるがわたしを迎える。みてるぶんには厚いわけじゃないのに、思ったより、やわらかかった。

 沢村くんの、髪の匂いかな。香料とか入ってなさそうな、石鹸の、清潔そうなかおりがわたしの体をいっぱいにする。ちょっとだけ、汗のにおいと。それから、寮の部屋のにおいがついてるのか、ブレザーからする、かすかな防虫剤の香り。
 びく、と沢村くんが動いたので、離させるまいとぐっと強く左手を引いて、それからわざとゆっくり、瞳を見つめながら離れた。暗がりでもわかるほど、沢村くんは真っ赤な顔をしていた。

「…息、止めてたの?」
「……だって」
「レモンの味した?」

 わたしの問いに、沢村くんは唇をぐっと一文字に結ぶ。こどものような仕草に思わず頬が緩んでしまいそうになった。
 だめだ。できるだけ、先輩ぽく。綺麗な形で、唇に弧を描くように意識する。ひとつ上なんだから。たった何ヶ月の違いで大人なんて滑稽だけど、たったそれだけがおおきい。

 だって、沢村くんといると、途端に意地悪な気持ちになってしまうのだ。確かに沢村くんがすきなのに。こんなのは、恋心じゃない。と、思う。恋心っていうのはきっと、もっと、きれいで、かわいくて、きらきらしてて――…そう、さっきのあの子みたいな。

 さっき廊下にいたあの子は、沢村くんをどう思っているのかな。もしかしたら、好きなのかもしれない。わたしとおんなじように。
 沢村くんには、人が集まってくる。でもそんな魅力に、沢村くん自身が鈍感だ。

 あの女の子より、わたしが少し早く好きになっただけ。あの時プリントをばら撒かなかったら。名前を調べずにいたら。手を振らなかったら。沢村くんは、ここにはいないんだろう。そう思うと、喉の奥が熱くなる。
 沢村くんの、かっこいいところを知ってほしい。でも、見せたくない。好きにならないでほしい。かんたんに、ほかの女の子に、好きにさせないでほしい。

「いや、どっちかっつーと…いちご…みたいな」

 熱に浮かされたように、沢村くんが答える。律儀だなあ。
「さっきまで飴なめてたからかも」そう言うと、ハッと空いた手で自分の口を押さえた沢村くんが、「俺さっきコロッケパン食った…!」と顔を青ざめさせた。

「コロッケのにおいしなかったよ」
「そういう問題じゃないっス!」
「なめてみたらわかるかな」
「え、 うあ ちょ せんぱ…」

 ゆっくりと顔を近づける。困った顔、かわいいな。熱そうな耳、咥えたらどんな味がするだろう。

「………いやまじでダメだから!」
「どうして?」

 べつに、わたしじゃなくてもよかったのだ。沢村くんの彼女は。
 けどわたしがちょっとだけ沢村くんの魅力に早く気がついたから。沢村くんも、それに答えてくれたから。たまたま。偶然。それだけのことだ。
 拒まれないという自信が簡単に押しのけられたのも絡めた左手が外されたのも寂しくて、拗ねたように沢村くんを見上げる。沢村くんは、わたしの不満そうな顔にしどろもどろといった感じで「えーと、ここは、学校ですし、あと、誰か来るかもしれないし、」と言葉を重ねた。

 「うん、」嫌われたんじゃない。だいじょうぶ。沢村くんはわたしのことがすきで、恥ずかしかっただけ。遮るように、沢村くんの制服のネクタイにそっとおでこをくっつける。沢村くんが息を飲んだのがわかった。いじわるしてる。優しい先輩でいたいのに、優越感とか、征服欲とか、独占欲とか、隠しきれずに、どんどんどんどん膨らませていくばかりだ。

「ごめんね」

 春休み。マウンドに立つ沢村くんがあんまりかっこいよかったから。いままで、優しいな、いい人だな、で終わってたかもしれないおんなのこのきもちが、好きにかわってしまうかもしれない。ノートを運んでくれた手が大きくて、暖かいから。触れられた女の子は、その熱を忘れられないかもしれない。やわらかい髪の毛が揺れるのは、ちいさな子供みたいだから。触りたくなるかもしれない。

 離れた指先で、ブレザーの、校章を掻くとカリ、と刺繍がわたしの爪に引っかかる。指の腹で、糸の一本一本を確かめるみたいに撫でた。びくっと沢村くんが動いて、は、と抑えられた息が頭にかかる。

「嫌いにならないで」

 運命の恋じゃないなんてことはわかっている。わかっているから、必死だった。
 いつか、膨れ上がったわたしの気持ちがばちんと音を立てて割れてしまっても。沢村くんとわたしに別れがきて、沢村くんが違う女の子とキスしたとしても。沢村くんの初めてのキスは、わたしのものだ。今この鼓動も、わたしが、わたしだけが。

20xxxxxx / わたつみは一番星に恋をする