後輩のつややかな唇から小さな溜息が漏れた。どうかした?と首をそちらに向けると、その小さな手に麦茶のパックが握られていたのでドキリとする。

「賞味期限でも切れてた?」
「やだ、違いますよ先輩。真田先輩の事です」

 わかってるんでしょう?と後輩はかわいらしく小首をかしげる。やっぱり、話しかけないほうがよかった。思い出さなくてもいいことを思い出してしまう。そもそも、今日は顧問の先生がどうしても来れないそうだから茶室の整理をしよう!と誰かが提案した時からなんだか嫌な予感がしていたのだ。あの男の名前を聞いただけで、わたしの胸はどうしようもなくざわつくし、苦い物を食べたように口がへの字になってしまう。

「え~…でも泥だらけだし、来てくれないほうが……」
「泥なんてどうにでもなりますよ!先輩は真田先輩のかっこよさをわかってません!」

わからなくてもいい、というのは勢いづく後輩を前に口にしないでおく。

真田俊平ほどいい加減な人間をわたしは見たことがない。
こんなに後輩が真田について熱弁するのは、彼がすこし前までこの茶道部に入り浸っていたからだ。
忘れもしない春のこと。委員会が長引いて部活に遅刻したわたしが茶室の扉を開くと、そこには汗だくのTシャツ・泥だらけの汚いズボン、そして泥だらけの靴下と三拍子揃った真田があぐらをかいてお茶を飲んでいたのだ。しかも、先輩も顧問の先生も笑ってそれを受け入れている。
状況が飲み込めなくて扉を開いたまま立ち尽くすわたしに向かって真田はまるでわたしのほうが部外者のように、「あれ、茶道部だったんだ」と言ったのだった。
わたしがどうしてと尋ねる前に、真田は「お邪魔してまーす」とへらへら笑った。そこへ先輩が「知り合い?」と聞いて、「同じクラスなんすよ」と真田が答え、ようやく同意を求めるように「なあ?」と振り返った、……くせに、その答えを聞く前に「あ、やべ。練習戻らねーと。じゃ、ごちそうさんっした」とわたしの隣をドタドタと去っていったのだ。

「かわいいよね、真田くん」「ほんと、かっこいいです」真田が去った後も先輩や後輩達はウキウキした様子でそう話していて、わたしは心底真田が苦手だと思った。
関わることのない違う人種だと思っていたのに、泥だらけの服で入ってくる無神経さや練習をサボッたのであろういい加減さ、それからすぐ人の懐にはいるところも相まってますます嫌気がさしてしまった。
その後、真田は何度もここに来てはお茶を飲んで休憩していくこととなる。
挙句の果てには真田のための麦茶のパックまで用意され始めた。それが夏直前のこと。

「あーあ、真田先輩、彼女でもできたのかなあ」

後輩の言う通り、夏になると、……正確にはもう少しだけ前から真田はぴたりと来なくなった。先輩や後輩、顧問の先生までそれを寂しがってたけど、わたしにとっては溜飲が下がる思いだ。
部活は出ているらしいから、きっとあのいい加減な男にも先輩としての責任感だかなんだかが生まれたんだろう。……と思っていたのに、………………彼女?





真田の事なんか全然まったく思い出しもしなかったのに、あれから例えば麦茶を飲む度だとか(うちの家は麦茶なのだ)、お風呂に入る度にだとか、とにかく何をしていても真田と想像上の女の子が腕を組んで笑っている光景が頭にこびりついて離れない。彼女?真田に?あんな泥だらけで汗くさい真田に??

失礼しました、と職員室の扉を後ろ手に閉める。昼休みはもう終わりに近づいていた。はやく教室に戻ろうと廊下を曲がった瞬間、「あ、」と声がかかる。
反射的に振り向くとそこには真田俊平がいた。

「…………」
「なあ」
「………わたし?」
「そりゃねえって」

話すのも久しぶりなのに、真田はさもそれが当然というが如くわたしの隣を歩く。こういう所が苦手だった。するすると遠慮なく人の心の隙間に入り込んでくる所が。誰だって真田を好きになる、こういう所、が。

「……部活、がんばってるんだって?最近お茶飲みに来ないね。それとも彼女でもできた?」

世間話のつもりが、なぜだか言葉に棘がつく。隠そうともしないそれに真田は当然気が付いてきょとんと目を丸くした。

「怒ってんの?」
「怒ってないけど」
「怒ってんじゃん」
「怒ってないってば」
「怒ってるだろ」
「だから、怒ってないっ!」

しつこい!そう言うと同時に勢いで振り返ると思ってたより近くに真田があった。「うお、」と驚いた声が耳に届く。

真田といると、嫌になるのだ。自分のかわいげのなさとか、そういう全部が浮き彫りになる。
何を、どういう風に話せばいいのかぜんぜんわからなくて、いつも真田の肩らへんばっかり見て、目が合わせられないし、怒ってないのに、いらいらしてもやもやしてざわざわして、結局怒ってるみたいな口調になるし、ぶっきらぼうで、かわいくない。
そもそも真田に彼女ができたとして、どうしてわたしが怒る権利があるっていうんだろう。そんなもの、これっぽっちもわたしに許されてなんかいないのに。もう、ぜんぶイライラする。自分がコントロールできない。

「…………ごめん」
「いやいーけど……」
「……あのさ、わたし、ほんと、あの、かわいげなくて、いつも無愛想だし、ほんと、あの、今は怒ってないんだけど、ほんと真田、話しかけないほうがいいよ。話し相手なら、他にもいるでしょ」

真田、どんな顔してるんだろう。怖くて見れない。真田の胸のあたりに触れて、遠ざける。真田の上履きが遠ざかるのが視界に入った。
こんな思いをするくらいなら話さないほうがましなのに、話しかけないほうがいい、なんて言った今のほうが痛みがひどくて、ほんとうにどうかしてる。

「……えーと。まず、彼女はいねーし、」

真田が立ち去らなかったことに驚いて顔を上げる。少し距離をおいただけで、真田はぽりぽりと困惑しているように後ろ頭を掻いていた。

「よくわかんねーけど俺はお前と話したいから」
「は?」

信じられない言葉が降ってきて、思わず固まる。話したい?俺は?お前と?誰と。

「あれ、聞こえてない?俺はお前と、」
「いっ…いい、それ以上言わなくてもいいから!」
「照れてら」
「照れてない」
「照れてんじゃん」
「照れてないから!」

恥ずかしくてやめてほしくて手を上げると、真田はそれをぐっと包んだ。引っ込めたくても握られた力がつよくて離れられない。

「なあ、俺もうサボりでは会いに行けねーの」
「…それは、」
「だからさ、ふつーに話したいし、もっと」
「な、え、」
「上手い理由探そうかと思ったけど、やっぱ我慢きかねーわ。嫌われてねーんなら、もう理由なんていらないだろ?」
「き、嫌われてないって、誰がいつ、そんなこと」
「そんな顔して言っても説得力ねーって」

初めてこんなに近くで、ちゃんと真田の目を見た。真っ直ぐと逸らされない視線に、上手く話せなかった理由がようやく1つの意味を為す単語として胸にすとんと落ちる。ずっと広がっていたモヤモヤが晴れた代わりに、鼓動は速くなっていて、諦めがわるくてかわいげもないわたしはそれを隠す術をどうにか考えている。

20xxxxxx / 胸先三寸に迫る