「十六回目」
「は?」

 ラビがコムイさんに報告の電話を終わらせたと思えば、開口一番僕の方を振り向いてそう言った。一体なんの数字か皆目見当もつかなくて、間抜けな声を出してしまう。

「なんです? 十六回目って」

 まさか、ラビが教団に入ってからこれで十六回目の任務な訳でもあるまいし。僕だって少なめに見積もってももう少し数をこなしているはずだ。いつだってエクソシストは人材不足で多忙なのだから。

「あれ? 気づいてなかった? アレンの溜息さ〜。オレと任務に出て今日で三日目、その間についた溜息が合計十五回。ちなみにさっきので十六回目」

 ラビは僕の隣に腰掛ける。古びたベンチが軋んだ音を立てた。

「なっ……か、数えないでくださいよ!」
「悪ぃ悪ぃ、趣味なんさ」
「人の悪い趣味ですね」
「おっ、ブラックアレン」

 ついでに一日の平均は、と更に続けようとするラビに聞きたくありません、とひらひら手を振って応える。レベルの低いAKUMAだったとはいえ、疲労が溜まり切った体に冗談を受け流す余力はどこにもない。そもそもそれでなくても僕の心はささくれ立っているのだ。
 とはいえ、この目の前のオレンジ頭にはそんな繊細な胸の内になどこれっっっっっぽっちも配慮するつもりはないらしい。それどころか、好奇心に目を輝かせている。何がウサギだ、獲物を前にした肉食動物みたいな顔をしてるくせに。心の中で悪態をつく。

「おにーさんが当ててやろうか、アレンの溜息の正体」
「人の不幸を笑い物にして楽しむのやめてもらえます?」
「だぁーって考えてもみろよ、このクリスマスを前にしたドイツで? 美味しい酒に肉、美人なお姉さんがイルミネーションのように立ち並ぶクリスマスマーケットを目の前に? 命からがら任務を終わらせたと思ったら? 一緒に楽しんでくれると思った相棒は溜息ばっか! 気分も落ち込むっつーの!」
「いつ僕がラビの相棒になったんです」
「つれないさ」

 つん、とラビと逆方向に首を向けるも全く堪えてなさそうな笑い声が耳に届いた。振り向いてやる気にもなれない。しばらくそうしていると、ラビは僕の肩からティムをそっと指先で誘い込んで、その僕より二回りほど大きな手のひらで撫でるように転がし始める。

「冷たいねえ、お前のご主人は」
「返事しなくていいよティム」
「ありゃカワイイ彼女と喧嘩したんさ。オトコゴコロは繊細さねー」
「!」

 すくい上げるように見上げられて、う、と言葉に詰まった。ここで抗議の声ひとつでもあげればそれこそラビの思う壺だ。毅然とした態度で無視を決め込むのが得策だとわかっているはずなのに、その名を前にした僕はいつでも白旗をあげてしまうのだった。

「別に、大喧嘩をしたってわけじゃないんですよ」
「つぐみの癇癪はいつものことさね」
「僕より知ったふうな口をきかないでください」
「おーおー、悪い悪い」
「確かに、この所ちょっと忙しくて構ってやれませんでしたけど。それにしたってつぐみはすぐに怒りすぎだというか、あんなに怒らなくったって……」

 ドイツの冬はイギリスより厳しい寒さだ。だから、単なる愚痴のつもりなのに口がうまく動かない。僕の言葉尻がどこか寂しそうな響きになってしまったのをラビは見逃さず、うーん、と歯切れの悪い相槌を転がした。

「つぐみはガキの頃から教団育ちだからな〜」
「そうですね」
「オレらみたいな途中入団組はさ、教団育ち組にギョッとすることも多いさ」
「それは……わかりますけど」
「ホーム以外を知らねえって怖いもんだせ、アレン。きっとつぐみの世界はお前が知ってるそれの十分の一にも届かないだろうな」

 人差し指と親指を使ってこのくらい、とラビが示すつぐみの世界は吹けば飛んでいきそうなくらい小さかった。

「そんでもってそのちっこい世界がアレン、お前でいっぱい」

 指の間から、ラビのエメラルドのような瞳がのぞく。
 つぐみは、お世辞にも器用とは言えない。くだらないことですぐ怒るし、料理だって下手だ。知らないことも多いから、同じくらいの歳でもちいさなこどもみたいだなと思うこともある。でも、いつも一生懸命だった。指と指でつくられちゃうくらい頼りない世界に、めいっぱい大切なものを詰め込んで、一途にもそれを守ろうとする。つぐみの姿を思い描くとしんぞうのあたりが締め付けられて、思わずぎゅっと自分の拳を握った。

「……っつーわけで」
「?」

 突然席を立ったラビが片方の口端を上げて振り返る。

「土産でも買っていってやりゃあいいんじゃね? オンナノコはサプライズに弱いさ」
「……ラビがクリスマスマーケットに行きたいだけでしょう。大方、あそこに売ってるホットワインが気になるんじゃないですか」
「ありゃ、バレた? んじゃ気兼ねなく」

 とがめる暇もなく、ヒラヒラと手を振りながらオレンジ頭は賑わいへ溶け込んでいく。僕は、なんとなくすぐ席を立つ気になれなくてベンチに座ったまま小さくなっていくラビの背中をぼんやりと眺めていた。

 イノセンスが起こしていた怪奇現象なんて嘘のように、この街のクリスマスマーケットは盛り上がりを見せている。暖かそうな色を蓄えた華やかなランプに、忙しなく交わされる英語じゃない言葉。ソーセージやワインのスパイシーな香りは、離れていても鼻腔をくすぐる。何故か喧騒にいやな気持ちがしないのは、この場所にいる人のやわらかい顔つきがどこかホームのみんなに似ているからだろうか。
 いつまでも座っていてもしょうがない。汽車はまだ来る気配も見せないし、唯一の話し相手であるラビもしばらくは戻ってこないだろう、立ち上がり、屋台を見て回ることにする。結局ラビに乗せられちゃった気がしないでもないけれど、趣向を凝らされた食べ物や物珍しい飲み物、所狭しと並べられている雑貨を前にしてはどうしたって胸が沸きたった。
 ――つぐみがいたらきっと、喜んでいただろうな。
 簡単にその笑顔が浮かぶ。本当はこんなケンカ、すぐに終わらせるべきだったんだ。すぐそばにいるみたいに思い返すことができるほど、つぐみが恋しいよ。
 はあ。大きく溜息をついてあの日のことを思い返した。雑誌を読んでいたつぐみ。調べ物をしていた僕。つぐみはなんの雑誌をあんなに真剣に読んでたんだっけ? そういえば、確かスイーツの特集号だったような気がする。見た目が華やかなものとか、可愛くて小さなものに彼女はいつだって夢中だけれど、もっぱら食べたり見る専門で、作る方は向いてない。つぐみもそれはわかっていて、リナリーのチョコレートケーキなんかはいつも味見係だった。そんな彼女がスイーツの特集号、それもレシピが掲載されている雑誌を手に取る理由といえば――……

「気になる?」

 不意に話しかけられて、没入しそうだった思考は無理矢理引き戻された。顔を上げてそちらに目をやると、小さな――十歳もいかない位だろうか――女の子が頬杖をついて僕の顔をニコニコとみつめている。マテールの任務で出会ったララを彷彿とさせるような薄い黄金色の髪をもった少女はどうやら屋台の店番をしているらしかった。

「えっ、あ、すみません」

 いつの間にか、お店の前で足を止めてしまっていたみたいだ。今更、商品は見ていなかったなんて言えるはずもなく、取り繕うように屋台に並んでいる商品に視線を移す。

「へー……クッキー? ですか」
「そうよ、ジンジャーブレッド」

 屋台には、つい言葉を失ってしまうほど彩りに溢れたクッキーが所狭しと並んでいた。クリスマスに使われるジンジャーブレットだ。ひとつひとつがクルミやチョコレート、アイシングで飾られていて、その細かさは団服の装飾も引けを取らない。

「これはキャンディーが埋め込んであるの。このアイシングはおばあちゃんが施したのよ。可愛いでしょう」

 少女が得意げに胸を張って答える姿が、どこかつぐみに似ていて頬が緩む。

「ええ、すごい……細かい作業ですね……、文字を書いているものもある。これは何と?」

 僕の問いかけに、少女が辿々しい英語で答える。ハート型のクッキーに描かれたドイツ語を指差し尋ねると、「素敵なひとときを」だとか、「多くの幸せを」だとか、いかにも縁起のいい言葉が書かれていたようで、矢継ぎ早に読み聞かせてくれる声が鈴の鳴るように心地よかったのも相まって僕はただ静かに耳を傾けていた。

「そうね、あとそれは――二人に幸福を」
「ふたりに……」

 十二月二十五日。多くの人にとって特別なその日は、僕にとってもまた重要な意味を持つのだった。マナに拾われた日であり、アレン・ウォーカーとして生きることを決めた日。つまり――僕の誕生日だ。
「あの、これって包んでもらえます? ええ、頑丈に。これから汽車に乗るので……、」



「お、アレン。機嫌治った?」
 駅に戻ると、ラビは既に暇を持て余していたらしく片手に空になったカップを持ち、ゴーレムと戯れていた。唇の端が持ち上がっているのをみるに、どうやらお目当てのホットワインは楽しめたようだ。
「機嫌? 僕の機嫌は最初からいい方ですけど。神田と一緒にしないでください」
「急にキャラ変かよ」
 汽笛とともに、汽車がホームへと滑り込む。トランクを掴んで一歩踏み出せば先に歩き出したラビが僕を振り返った。
「……仲直りできそ?」
「まあね」
 試すように窺う視線には微笑みを。生意気な、と乱暴に乱された髪も、今の僕には笑って受け流すだけの余裕がある。

 汽車はスピードを上げて、ドイツを後にしてゆく。流れる景色が教団が近づくにつれ、懐かしさを感じた。家族を知らない僕がそんな気持ちを抱くようになったのは、きっとつぐみのおかげだね。まだ怒っているかな、それとも、もう機嫌は直って僕の名前を呼んでくれるかな。どっちだっていい。君にただいまを言いたいよ。
 仲直りのお土産はジンジャーブレッド。可愛いものが好きな彼女のお眼鏡にどうか適いますように。チョコレートがつややかに僕たちの幸福を願った文章を彩って、ポケットの中から今か今かと出番を待ち望んでいる。

20211025 / お星様の言うとおり
(bouquet再録)