きっかけはすごく些細な事だったろうと思う。御幸が約束してたのに寝坊して、謝らなかったとか、御幸が貸してくれたCDに、傷をつけちゃったとか。普段はバカ!あほ!と怒って終わりで、ジュース奢ってチャラにしてもらったり、その逆も然りだったりで、その日の放課後にはバイバイだって言えたしまた明日だって言えた。たぶん、あの時はお母さんと喧嘩したとか、満員電車だったとか、くだらない事で朝からイライラしていていて、だから、いつもなら許せる事でもどうしても御幸が許せなくて、それから、そのまま。

 まだ喧嘩してんの?、前の席の友達が体だけこちらに向けて、話しかける。うんそう。できるだけ口を動かさず、早口で言う。頬杖をついてる手を、頬に押し付けすぎてすこし痛い。不機嫌マックスのわたしの顔はおそらく最高にぶさいくで、友達が、あ~…と声を漏らすのを左の耳だけで聞いていた。御幸なら、ブッサイクって笑って、頬でも抓ってくるだろうか。御幸の笑顔を思い出してすぐに消す。油断するとわたしはすぐに御幸ばっかりになってしまって、いけない。

「長いね~、今回」
「別に。怒ってるの、わたしは」
「何で」
「……とにかく怒ってるの!御幸から謝ってくるまでぜったい許さない」

 話しているうちに、朝礼開始のチャイムが鳴りはじめる。廊下を走るバタバタとしたいつもの足音も耳に届いた。ギリギリまで朝練をしている野球部の遅刻回避すれすれの足音は毎朝恒例行事だ。勿論、そこに御幸もいる。
 友人が顔を強ばらせるわたしを気遣って口を噤んだと同時に教室のドアが開いた。野球部に所属しているメンツがやばい、焦った、なんて言いながら席に着いていく。

「おはよう、倉持」
「お…おう。はよ」

 ガタンと音を立ててわたしの斜め前と隣の席に大きな音を立てて置かれると同時にそう口にすると、視界の端で友人があちゃーと言う顔をしたのが見えた。倉持もちょっと目を見開いたのが空気でわかった。でも、隣の席の御幸の顔が見れない。なんでもかんでもよく見えてる倉持のことだ。御幸とわたしの事は知ってるんだろう。

 言った瞬間。それから倉持が少しの困惑を見せて返事をくれた瞬間。全部がぜんぶ、じわじわとわたしの心に罪悪感という3文字となってわたしにのしかかる。今謝っとけばよかったのに。昨日謝ればよかったのに。一昨日、謝ればよかったのに。3日前あやまればよかったのにあの時すぐに、謝ればよかったのに。そしたらおはようっていえたのに。もうしばらく、御幸をまともに見ていない。

 御幸の事が好きになってから、変わったことが少しある。朝1本早い電車で来て、野球部のグラウンドまで回り道をして、こっそり御幸の姿を見つけてから、教室に向かうこととか。そういう小さな、ほんとうにちいさな想いが積み重なって、ぐらぐら零れそうだったところを御幸は見つけてくれて、受け止めてくれた。そういうこと、ひとつひとつ忘れたくなかったのに。
 なのに今朝は、気付いたら目覚まし時計が止まっていた。やばい!と飛び起きた時間は充分学校に間に合う時間だったけれど、それは御幸の事をすきになる前からしたら、の話だ。
 グラウンドに回り道する時間、今日はないなあ。いつのまにか、御幸をすきな時間のほうが、わたしにとって当たり前になっている。

 前まで乗ってた電車に乗ったら、乗客の顔は全然知らない人たちばっかりだった。携帯を開いた。着信もお知らせもなんにもなかった。グラウンドに寄らずに、学校の門をくぐった。足が重かった。下駄箱に着いた。1年生だろうか、賑やかな話し声が聞こえる。
「ねえ、知ってる?!」
「なにが~?」
「野球部の御幸先輩、彼女と別れたんだって!!」
 息が止まるかと思った。

 あんまり当然に御幸がわたしの隣にいるもので忘れてたけど、御幸は有名人だ。下級生も上級生も大人の人も他校の人も、なんだったら他県の人も御幸の名前を知っている。

 だから、御幸には根も葉もない噂が立つ。隠し撮りだってされたりする。それはわたしと付き合う前からもそうで、御幸自身と真っ直ぐ合う前はわたしもその噂に振り回されたりされなかったりして一喜一憂していた。
最近は、もうずっと何も言われなかったのにな。
 誰かの声が頭の中でこだまする。
「御幸先輩、別れたんだって!!」
 ウキウキした声。ゾッとした。1週間と少し、話さなくなっただけでこう言われるのは、そう望んでいる人が多いからだろう。御幸とわたしが別れることによって、うまくいかないことによって、喜ぶ人がいる。
 御幸、みゆき。御幸ってどんな顔で笑ってたっけ、思い出せるけど。どんな声で話すんだっけ、思い出せるけど。ぜんぶ全部思い出せるけど、思い出せるけど、記憶の中だけじゃなくて、やっぱりわたしは御幸ともう一度話がしたいし笑ってほしい。別れたなんて、そんなの、真実にしたくない。けど、このままだと、


 御幸を見つけられたのは、寮の近くでだった。ユニフォームを着たままで一人で歩いているところからして、練習が終わって監督室に寄っていたのだろう。教室からまっすぐ、御幸ならここにいると思って走ったから、喉がひゅんひゅんする。御幸って叫びたかったけど、その名前をもうずっと口にしてなかったからなんだかうまく呼べない気がして、持ってたタオルを丸めて投げた。へたくそなせいでぱさ、と御幸の腰あたりに頼りなく当たる。こないだ御幸がキャッチボールしてくれたときもっと真面目にやっとけばよかったとおもった。

「…………何」

 御幸が振り返って、タオルを拾う。それから、わたしを見る。

「な、ナイスボール…?」
「意味わかんね」

 へ、へへ、とだらしなく笑うと御幸は眉を顰めた。そのままわたしにタオルを手渡して、また歩き出そうとする。あ、

「待っ……」
「……何」
「あ、あのさ」
「なに」

 …………怒ってる。おこってる、と思った。声が冷たい。だれか他の、知らない、ぜんぜん仲良くない人にいやなことをされたみたいな声。ほとんど聞いた事のないそれに、口の中がからからになって、頭がまっしろになって、御幸の目を見てた視線を逸らす。俯いたら、わたしの御幸の左手首を掴んでる手がちょっと震えてることに気付いた。

「わ、わ、わたしたちってさ、」
「……」
「別れ……た、のかな」

 わかれる。この4文字がこんなに口にしにくいと思わなかった。御幸は、しばらくなんにも言わなかった。わたしも何も言えなかった。沈黙の間、言わなきゃよかったと思った。わたしが御幸だったら、噂を立てられたらいやなきぶんになる。それを鵜呑みにされると、もっと嫌な気持ちになる。だったらそれを彼女のわたしがしちゃだめだってずっと心に決めてたのに。たとえ、御幸がどんなに強く見えても。

「……お前はどう思う?」

 どうして言ったんだろうどうして謝らなかったんだろうどうしてあんな態度とったんだろう。いろんな気持ちが、ぐるぐる巡って、泣きそうになってたら上からわたしの知ってるいつも御幸の声が降ってきた。

「わかれたくない!」

 すぐそう言って、御幸の手首をもう少しだけきゅっと握る。

「………必死かよ」

 ははは、御幸が、わらった。

「いつ俺が別れるっつったよ?」
「うん」
「泣くなよ」
「うん……ごめん」
「ぶさいく」
「ごめん。意地張ってごめんなさい」

 さっき投げたタオルを手から奪い取って、御幸がわたしの顔をぐしゃぐしゃと拭く。ぎこちない手つきで。歪んで見える御幸が笑っている。御幸が笑うならもうぶさいくでもなんでもいい。

「落ちたタオルじゃん~~~」
「お前のだろ」
「きれいのがいい~~」
「俺のやつのが汚ねぇよ。我慢しろ」
「御幸ぃ~~」
「なんだよ」
「怒んないで~~」

 久しぶりに呼んだ御幸の名前はおどろくほどしっくりと心に馴染んだ。みゆき、ともうひとつ名前を呼んだら、たどたどしかった手が一瞬止まって、それから急にぐしゃぐしゃぐしゃーっとタオルごとわたしの頭が乱されてゆく。

「じゃあこれから一番に俺におはようって言えグラウンドにも来い噂なんかも真に受けんな」
「何?!え、なに!」
「倉持ばっかに笑うなあとくだらねえメールもしてこいわかったな」
「なに!?」
「わかったな」
「う、うん?」

 正直ほとんど何も聞こえなかったけどとりあえず頷いてたらぐちゃぐちゃと暴れる手は止んだ。お、おはようって言えグラウンドに来いとかなんとか…?
 御幸の手が離れたので、タオルを受け取って、髪をいそいそ撫で付ける。泣き顔みられてぶさいくって言われて今更だけど。

「ていうかお前なんでこんな時間まで学校に居んだよ」
「……なんかいろいろ考えてたら……」
「ふーん。で、その考え事やらは解決したのか?」
「まあね」
「じゃあ駅まで送ってやるよ」
「え」
「メシの時間まだだし着替えてくるから待ってろ」
「え、い、いいよそんなの!帰れるよ!」
「いーって。……ゴメンな」
「へ」
「待たせるから」

 待たせるから。早口で言われたごめんの理由の中にはそれ以外にもいろいろあることを知っている。

 寮へ向かう御幸の背中を見つめることは、もうつらいことでもなんでもなかった。よろこんだ1年生にはごめんなさいと思った。御幸がすきだとおもった。わたしが見えてることを、大切にしたいとおもった。しなきゃだめだとおもった。待ってろって言われたけど、どうしようもなく心臓のへんがぎゅうっとなったから走って背中に思い切り抱きついたら御幸がちょっとびっくりした声をだして面白かった。今度は追いついた。

20xxxxxx / バイバイバグベアー