武士の化粧とは違って地肌の色を生かした少なめの白粉をはたく。眉を引き、ぽっと紅潮するようにほお紅をのせ、口紅をそうっとそうっと丁寧におとせば、立派な女性の出来上がり。目を瞑っているその人に声をかけ、鏡を渡す。長い睫毛が揺れた。黒い綺麗な髪も相まって、このまま町を歩けば皆が振り向くに違いない。

「はい、終わりましたよ」

 化粧を施したのが本当に女の子ならば、の話だが。

「ありがとー。やっぱ化粧はやってもらうに限るなあ」

 先ほど化粧を施したのは出かける姫様でもなく、どこかの誰かに恋をしている町娘でもなく、というか、まず性別からして違った。鏡を前ににかっと笑ってみせる半兵衛様はまず男であり、私の主である。

「ご自分でなさるのも得意でしょう」
「いやまあそうだけどさー、こういうのって女の子が一生懸命かわいくしてくれるのが楽しいところでもあるじゃん?」

 戦に出る武士とはまた違った娘っ子の化粧をして、からからと楽しげに笑っているが半兵衛様は半兵衛様の戦に出る。この人の戦は戦が始まる前から始まっているのだ。敵方の情報収集。労力を使わずして勝つのを信条としている半兵衛様は、「敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」という所か、戦が始まる前から戦っているのである。女装はたまに趣味なのかな、と思う時もあるけれど、何かと便利なのであろう。自分の目で見る、というのも半兵衛様らしいのであえて触れないようにしている。

「にしても」
半兵衛様は片付け始めたわたしの化粧道具をしげしげと珍しそうに覗き見る。

「つぐみってそんなに化粧したっけ?」

 床に散った化粧道具はおよそ私の地位くらいの者が持つ量ではなかった。口紅だけでも微妙な色合いの違いのものがみっつよっつ、…どころではなく沢山あり、半兵衛様はその一つ一つに視線を滑らせてから私の顔をまじまじと見つめる。

「しませんよ」

 私はその数々を片付けながら応えた。

「だよねー、今日だってそんなにしてないのに」

 半兵衛様は私の顔を見つめる為に乗り出していた身を引っ込めて、後ろ手をついて足を放り出して座る。はしたないですよ、とたしなめるけれど半兵衛様の興味は私の化粧道具へと注がれているのでそんな注意は聞こえているようで、聞く気はないらしい。

「化粧道具、揃えるのが趣味なの?知らなかったなあ」
「いいえ。どちらかといえば団子を食べる方が好きですね」
「だよねえ。じゃ、なんで?」

 どうしても半兵衛様はこの数々の化粧品の真相を知りたいらしい。頭のよい人はどうでもよい事ばかり知りたがるので困ったものだ。化粧道具を仕舞うかちゃりかちゃりという音に、ふ、とひとつ息を吐く。

「以前、姫様に頂いたんです。使わない内に溜まってきてしまいました」
「どーりで。こーんな色つぐみ選ばないよなって思った」
「1度きりしか使っていないものや、町に行ったついでにとありがたくも頂くこともございまして」
「へー…姫様が」

 半兵衛様はまだ床に転がったままのものをひとつ取り上げて、「うわ」と声を上げたり、「うーん」と唸ったり、「めちゃくちゃ高級じゃない?コレ」と一人で楽しそうだ。わたしがそれらをすべて片付け終えると、半兵衛様も満足したようで今度はその長くなった髪をくるくると指に巻きつけてわたしに問いかける。

「っていうかさ、こんなにあれば毎日困んないでしょ?こーんな高そーなものとか使わないともったいなくなーい?」
「そうですが…」
「つぐみだって年頃だし、着飾ったりしたくないの?」

 半兵衛様はいつもわざとカマをかけるくせに、時々無邪気に人の核心をつくことがあるのでいけない。半兵衛様の着ている薄桃色のかわいらしい着物が視界に入った。と、同時に鮮やかな化粧箱も。しっかりと蓋を閉じたそれはもうしばらく日の目を見ることはなさそうだ。

「………わないので」
「ん?」
「似合わないので。それだけですよ」

 これ以上尋ねられたくないという風に言葉を閉じ、よいしょと立ち上がると半兵衛様がへえだのふうんだのというような声を出して、同じ様に立ち上がる。

「…じゃ、いってくるね」

 聞かれたくない事の線引きをきちんと理解しているのは半兵衛様が優しいからであろう。振り返って笑顔を見せた主はそれはそれは大層かわいらしく、自分のひねくれた性格が嫌になった。





「…わっ!」

 侍女達と話しこんでしまい、外はすっかり陽が傾いている。そろそろ自室で仕事の続きをしないとと廊下を歩いているといきなり肩を掴まれた。振り返ると私よりすこーーーしだけ背の高い、かわいい女の子が。

「ひっ!……は、はんべえさま!一瞬どなたかと思いました」
「簡単に背中を取られちゃあ、まだまだだねー」

 半兵衛様はびくついた私の背中をぽんぽんと叩いてから自室へ戻ろうと歩む。「いやあ、豊作豊作」くつくつ揺れる背中を見るに、半兵衛様の求めるものは手に入ったようだ。乱れていない着物に暴漢に襲われた事もなく無事だったのだろうとほっと安心する。今回は御伴出来なかったけれど、次回は必ずと決意を固めていると「つぐみ」、と呼ばれる。半兵衛様はいつのまにか振り返っている。

「おみやげっ」
「っわ、」

 ひょいっと下から小さな物を投げられて、ふいをつかれた私は落とさぬように両手でそれを挟むようにして掴むのが精一杯だった。落とさなくて良かったと安心し、一体なにがおみやげなんだろう?筆かなにかか、いやそれにしては…もしや虫などではとおそるおそる手を開く、と、

「………くちべに」
「そ。ま、姫様のより、高価な物じゃないけど」
「え、こっ…こんなの貰えません!」

 少し前を歩いていた半兵衛様の背中を追いかけ袖を引くと不満そうに「せっかく買ってきたのにー」と少し唇を尖らせられたのでう、とたじろいでしまった。

「あのねえつぐみ」
「はい」

 それでもなにか褒美でもないのにこれはと口紅を半兵衛様に返すように手で押し返すと半兵衛様が呆れたように口を開く。

「あんな顔をされると、男としては何かしてやりたくなります」
「……今は女子ではないですか」
「屁理屈言わないの。ねえ、似合わないなんて言わないでさ、ちゃんと付けてみせてよ」

 相手の心を絆すのが上手い人だ。

「で、でも…」
「でもー?」
「ぐ、」

 似合わないんです。またそう言うと半兵衛様はきっとそんなことないと言うんだろう。優しいんだ。しかし似合わないものはきっと似合わないだろうし、それに今まで戦場を勇猛果敢に駆けていた私が化粧なんて、幼い頃から見知った侍女や乳母たちがなんて噂するか。父上なんて噂を聞いて倒れてしまうかもしれない。姫様のように大人びた顔ならまだしもこんな子供から花も盛りの時期を吹っ飛ばして鬼のような顔の私が化粧なんて、けしょう、なんて…
 半兵衛様の袖を掴んだまま「う、…ぐ」と俯く。半兵衛様は本当にわたしに似合うと思っていらっしゃるのだろうか、よもやからかってらっしゃるのかもしれない。

「じゃあさー」

 上から掛けられた声にはっと顔を上げると半兵衛様はにっこりと唇に弧を描く。

「貸しにするよ」
「か、かし?ですか」
「そ。だからさ、」

 情けなく開いた私の唇に半兵衛様は秘密事でも約束するように人差し指を柔らかく押し当てた。

「ちょっとずつ、返して?」

「か、返す…?」半兵衛様の人差し指がくっついたままそう繰り返すと「あ、わかってないな」半兵衛様がにやり。人差し指がゆっくりと離れる。

「だからね、つぐみがこの紅を引くでしょ?」
「はあ」
「そんで、俺にこうしてくれたらいいよ」
「こうって、ど、う……んむっ ー?!!!」

 こうしてくれたらいい、と言って半兵衛様の影が自分の顔に落ちるのを危機感もなく見ているとそのまま唇がか、かさ、重ね、ら、れた。ぷすりとからくりが止まるように思考回路も止まり、目を見開くと半兵衛様はにこりと笑みを浮かべたまま離れる。ど、どういう…

「なな、な、」
「あ、初めてだった?」
「は、はじめてもどうしたもこうしたも」
「しまった。俺まだ女の子の姿のままだった」
「そ そういう問題じゃないですよ!!」

 顔が熱くて火が出そうだ。半兵衛様の胸元をどんと叩くけど本人は楽しそうにけらけらと笑ったままで。事の発端である紅はわたしの手の中のままで。半兵衛様はひとしきりわたしの赤い顔を見て笑い、「さ、着替えよーっと」顔の横で火照りを冷まそうと手を仰ぐ私を放ったまま自室に戻ろうと背を向ける。それからわざとらしく振り返って、言うのだ。

「いやあ沢山使ってくれるの、楽しみだなあ。一体何回すればなくなるか」
「つっ…使いませんから!!!」
「そんな事言っちゃってー」
「使いませんってば!」


20xxxxxx / 紅差し指にわっかをかけて