午前八時。

「向かい、いいかしら」

 食堂は既に混み合っていた。神田は、明らかに自分に向けられた言葉だとわかっていながら顔も上げずに蕎麦を啜る。しかし話しかけた少女――リナリーは返事がないことなど意に介さず、当然の仕草でそこに座った。毎度の如く繰り返されるやり取りに神田は辟易していたが、ここ黒の教団でリナリーを敵に回した日には明日の朝日を拝むことはできない……とはいえないまでも、非常に難しいのはわかりきったことである。

「つぐみ、遅いね」

 リナリーが、フレンチトーストの端をナイフで丁寧に切りながらそう言った。滴るシロップは見ているだけで胸焼けがする。朝食に甘いものを選ぶ感覚は神田には到底理解できそうもないが、彼女をはじめとしたこの教団で生活を共にする女は昼夜の区別なく甘いものに目がなかった。とはいえ、神田の中で「この教団で生活を共にする女」のサンプルはリナリーともうひとり、つぐみしかいないのだが。

「知らねえよ。死んでるんじゃねェのか」
「またそんな事言って。兄さんが言うには、そんなに長くかかる任務じゃないみたいなんだけど……」
「俺に聞くな」
「あら、じゃあ誰につぐみの事を聞くの?」

 にっこり。効果音がつきそうなくらいわざとらしいリナリーの澄まし顔には、神田も口籠もる。
 つぐみは、神田やリナリーと同じエクソシストだ。歳が近く、同じように育ってきたうえ、性別が同じなのも相まってリナリーはつぐみを人一倍大切にしている。予定より遅れている帰還に、心配するのも当然だった。

「お前の兄貴がいりゃ充分だろ」
「でも任務先で寂しくなった時、声を聞きたいのは上司じゃなくて恋人でしょう」

 恋人。リナリーの形のいい唇から発せられたシロップより甘い響きに、神田は胸焼けを通り越し頭痛を覚えた。

「……そりゃお前の読んでる本からの知識だろ。どんな本読んでんだお前は」
「神田のゴーレムに連絡はないの?」
「聞け」

 神田の言葉は無視されるも、リナリーに呼ばれたゴーレムは主人の態度とはうらはらにその懐から待ってましたとばかりに飛び出した。ふよふよとリナリーの頭のあたりを漂うその人懐こさには思わずリナリーも目を細めて指先で撫であげる。神田はその光景を呆れた様子で見つめていた。

「……ねェよ。生憎だったな」
「そっか。今どこにいるんだろう。ウィーンのほう、寒いからこごえちゃったりしてないかな。せめて暖かくしてくれればいいのだけれど……」

 先ほどまでの軽口は消え去り、リナリーの瞳には心配の色が滲んでいる。窓の外には雪こそ降っていなかったが、灰色の空が気温の低さを物語っていた。



「あっ、神田! こんな所にいた!」

 正午を少し過ぎた頃。鍛錬室へ向かおうとした神田の背を呼び止めたのはアレンだった。予定を狂わされたのも、無作法に名を呼ばれたのにも苛つきを覚えた神田は鍛錬の代わりに喧嘩なら買うつもりだと眉根を寄せながら振り向く。

「おっと! 相変わらず少しも愛想良くできないんですね。まったくつぐみはなんでこんな男を選んだんだか」
「うるせェ。テメーと喋ってる時間はねェんだよ」
「僕だって神田に用なんてありませんよ。コムリンの実験台になるか手伝うかって言われたから仕方なく……。用があるのはコムイさんです。室長室に来るようにと言付けを預かってたんで、行って来たらどうですか?」
「おい、今聞き捨てならねェ単語が聞こえた」

 科学班の手伝いをしているらしいアレンは、その両腕に本を高く積み上げていた。整理のついでに神田を見かけたら呼ぶようにとでも言いつけられていたのだろう。しかし、耳を掠めた単語が気に掛かる。いくら神田でも、あれの犠牲になるのは耐え難かった。

「じゃ、僕は伝えましたからね。さようなら、神田。できれば永遠に」

 アレンは詳細を告げることなく踵を返したかと思うとすぐに歩き出した。長く暗い教団の廊下では、神田の舌打ちは届く間もなく消えてゆく。



「悪い悪い。この間の報告書な、神田のサインが抜けてたんだよ。この人の確認漏れ」

 多少身構えて科学室に向かったものの、神田を迎えたのは目の下に立派な隈をこさえたリーバーだった。この人、とリーバーが親指で指したその先には部屋の隅で書類に埋もれ屍状態のコムイがいる。今回も徹夜が長く続いているのであろうことは簡単に推測できた。
 リーバーがそばにあった机の上の書類を乱雑に端に寄せ、スペースを作る。そこに件の報告書が載せられた。このくらいのことだが、このくらいのことが重要なのだろう。適当に手首に着けていた紐で髪を結い、再度報告書に目を通す。その他に見落とされた不備はないようだ。リーバーに渡されたペンで、最後のページに自身の忌々しい名を滑らせた。

「……嗚呼コムリン……何も壊さなくってもいいじゃないかあ!」
「余計な仕事増やすなって何回言やあ気が済むんだアンタは!」
「徹夜続きのリーバーくんやみんなの負担を軽減しようとして作ったのに……。あ、そうだ」

 リナリーのわざとらしい効果音をつけたような微笑みはこの兄に似たのだろうか。呆れた視線を注いでいると大袈裟な手振りで泣き真似をしていたコムイが閃いたとばかりに目を輝かせた。嫌な予感がする。神田が黙って足早にこの部屋を後にしようとしてももう遅かった。異様な力で肩が掴まれる。

「神田くん、いいこと教えてあげようか」
「いい」
「つれないなあ。情報料として、すこ~しだけ六幻と、君の体を貸してくれるだけでいいんだけど……」
「断る」
「ほんっと~にいいのかな? つぐみちゃんの事なのになあ~」

 ピクリ。聞こえた名前に神田が足を止めた。まさか、と嫌な予感が胸を過ぎる。つぐみの身に何かあったとは思わないが、そのイノセンスに何か――というより、つぐみのイノセンスが既にコムリンの犠牲になっているのかもしれない。

「まだ諦めてないのかアンタ」

 おい、と詳細を聞き出そうとした神田を遮ったのは、リーバーだった。チャンスの前髪を掴み損ねたコムイがあっと残念そうに声をあげたのも無視して、重ねるように告げる。

「つぐみ、さっき帰って来たぞ。書庫に向かうとか言ってた」



 ラビと神田が廊下で出会ったのは、夜の七時前だった。

「あれ、ユウちゃんめっずらし~」

 すれ違いざま、ラビが珍しそうな声で呼び止める。神田の来た廊下の先には書庫しかない上に、少なくともラビの記憶上過去一度も、その場所で神田を見かけたことはなかった。

「調べ物? 言ってくれりゃあ手伝ったのに」
「探られんのはゴメンだ」
「あはは。だってユウちゃんがなに調べてるんかな~って気になるさ。ほら、そういうのはいつも人に丸投げしてんじゃん?」
「うるせェ」

 図星をつかれて押し黙る。幼い頃からリナリーやアルマと共に半ば強制的に教育されてきたこともあり、神田は勉強が苦手だった。椅子に座ってじっとしているのは質に合わない。ラビやリナリーと同じ任務では、報告書の作成やファインダーによる事前調査の予習など丸投げできて助かっているのも事実だった。

「ん、あれユウちゃん…………」

 不意にラビが神田の顔をまじまじと見つめる。流れるように下から上にじっくり視線を巡らされて、神田はやめろとばかりに舌打ちをし、それを遮った。

「………………寒くねェの?」
「別に」
「……ふ~ん、へーえ?」

 意味深な間と問い掛けが元々良くもない居心地を悪くする。神田の服装は普段と変わり映えしないが、それにしては今日の気温と剥き出しの腕が似つかわしくない。元々厚着をするタイプではないものの、共同クローゼットを使用する者として、神田が羽織りを何種類か持っていてかつそれを使用しているのはラビもよく知っていた。

「何だよ」
「いや? 今日はいつもより輪をかけて男前さ~、と思って」
「あァ?」

 何か言いたげな、好奇心を秘めた視線が神田の顔に注がれる。チクチクと小さな棘のように刺さるそれを神田が黙って享受できるわけもなく。一触即発、足もしくは手が出かかった所でひょいと交わすようにラビがくるりと背を向けた。

「オレ、書庫行くのや~めた」
「は?」
「ユウに怒られそうだし? 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえってさ~」
「何だそれ」
「ニホンの諺! 知らないさ?」
「くだらねェ」

 少しの間そこに留まりラビの言葉の意味を考えた神田だったが、頭を捻ったところであの意味深な視線の答えがわかるはずもなく、代わりの羽織りを探すべくクローゼットへと向かった。


 ふと鼻を摘まれて、顔を顰める。咎めるようにつぐみを睨みつけると、ふふふと言う笑みと共にすぐ人差し指と親指が離れた。

「何だよ」
「ベッドからなんにも告げずに出ていこうとするなんて、失礼だなと思って」

 物の少ない神田の部屋は窓から注ぐ太陽がランプ代わりだった。月明かりにぼやけるつぐみの白い輪郭から推測するに、今は日付を越えるかそうでないかあたりの時間だろう。
 古いベッドは、つぐみが身体を起こすと簡単に軋んだ音を立てる。鍛錬をしたまま森で夜明けを迎えることも多い神田にとって寝心地の良い悪いは些細な問題でしかなかったが、つぐみがここで過ごす度に身体が痛いと告げるのは多少気掛かりではあった。そうでなくとも任務帰りだ。部屋着であるキャミソールからのぞく肩には包帯が巻かれていたし、思い返せば太腿のほうにも新しい傷があったような気がする。

「寝てろよ。……別に、どこにも行かねェから」

 すっかり書庫での昼寝の続きをするのかと思っていたが、つぐみにはもうすっかりその気はないようだった。神田の言葉に、うんとひとつ返事をしたつぐみは寝具に身体ごと包まりながらベッドに腰掛けた神田の肩に頬を寄せる。

「でもメイク落としてこなくっちゃなあ……」

 ふあ、とあくび混じりに告げたメイクという単語は今の神田にとって最も耳にしたくない言葉のひとつだった。当のつぐみは少しも気にも留めないで、睡魔に加わる面倒くささと女としての義務感を天秤に掛けている。しばらく、んん、と神田の腕に額を押し付け迷っていた様子だったが、ようやく意を決したように立ち上がった。

「これ、借りてくね」

 ベッドの上に放り出されたままだった神田のニットのカーディガンを手に取って、まるで自分のもののように軽やかな仕草でつぐみはそれを羽織った。
 女子専用の洗面所までは長い廊下を行く必要がある。高い崖の上にある教団はただでさえ気温が低い。つぐみのキャミソールにショートパンツという格好では防御力もゼロに等しく、凍えてしまうこと必須だ。
 それに、人出の少ない夜だとはいえ、大所帯の教団でそれもエクソシストという注目を集める立場にもかかわらず、露出の多い格好をして出歩くのは多少なりとも面白くない。そう考えるとカーディガンのひとつやふたつくれてやると神田は思ったのだが、

「マーキング。好きでしょ?」

 つぐみが勝ち誇ったように、唇に人差し指を押し当てて告げるのを受け入れるのはまた別の話だ。何せ、書庫で寝ている彼女の唇に自身のそれを押し当てたはいいものの、つぐみの付けていたリップが移ったまま、しばらく歩いていたなんて笑い話にも程がある。しかも神田が気づいたのは当の本人に指摘されてから、だと言うのだから。

「……っ、お前」

 羞恥心と怒りの狭間で、それをぶつけるべく音を立てて立ち上がった神田だったがつぐみはひらりと躱し、扉に手を掛けた。

「ちゃんと戻ってくるから、安心して」

 目に見える嫉妬心の少ない神田にとって、件のカーディガンはマーキングなどではなく、ただの優しさであることをつぐみはよくわかっていた。喜びが、つい焚き付けるような態度となる。普段与えられる神田の目に見えないそれも等しくいとおしいものだとはいえ、表面化された愛情はつぐみにわかりやすく愛されている実感を与えた。そこに少々怒気が含まれていたとしても。
 二人はエクソシストだ。どこで死ぬかも、どの言葉が最後になるかもわからない。たとえ一緒にいたとして、状況が許さなければ容赦なく切り捨てる。
 どこにも行かない。戻ってくる。言葉にするのは簡単でも、実行するのは難しい。本当は帰って来て安心した。柄にもなく寝込みを襲ったのはそのせいだと神田は少しだけ認めることにした。

20211025 / 夜もとろける夢を見せて
(bouquet再録)