エンターキーを押したところで大きく伸びをした。定時後三時間も経てば残っている人もおらず、デスクに並んだパソコンは無口を決め込みしんとした空気だけが広がっていた。
 気分転換に席を立つ。窓の外では華金らしく居酒屋を抱えたビルが鮮やかに光を携えているのに、扉一枚違うだけでまるで別世界のようだ。

「あれ? まだ残ってたんだ」

 コンビニまで行って晩御飯を買って戻ったとして、どこかへいった集中力が戻ってくるとも思えない。頼まれた資料作成もキリのいい所までは進んだし、あとは明日の自分に頼もうかな……と外を眺めたまま迷っているとドアが開く音がした。反射的に振り返る。

「竹中さん。忘れ物ですか?」
「うん。君は残業?」

 尋ねられた言葉は苦笑いでうやむやにした。
 竹中さんといえば営業部のエースだ。かわいらしい見た目とフランクな勤務態度からは想像できないが毎月の営業はトップ以外許さず、社長のお気に入りでもある。それでいて定時退社・有給完全消化を心情としているため、その人を前にこんな時間まで残業していましたとは言い難い。

「お腹空いたでしょ」
「空きました……」
「だよねえ」

 俺もお腹空いちゃった、竹中さんが続ける。こういう所が人好きをする所以なのだと思う。偉ぶったりせず、相手の目線に合わせてみせるところ。だからなんとなく竹中さんの前では心が緩んでしまう人が多いのだろう。

「あっ 私、チョコならありますよ」

 ……このまま別れるのは勿体ないような気がする。もう少し話してみたくて、そういえば口寂しくなった時用にとデスクの引き出しにチョコを忍ばせていたのを思い出してよかったら、と小袋のそれを出しながら竹中さんに告げると竹中さんは私の顔をみてぱしぱしと二、三度瞬きをした。大きな瞳を縁取る睫毛が揺れる。

「……っぷ、」
「?」
「君さ、今日何の日か知ってる?」
「え? 何の日…………あ、」

 竹中さんの肩の向こう、壁に貼られたカレンダーに視線を移した。そういえば今日は二月一四日、バレンタインデーだ。さあっと血の気が引く思いだった。今私何ならありますって言ったっけ、思い出したくもない。

「ごっ……ごめんなさいそんなつもりじゃ!!」
「その反応も傷付くなあ~」
「あっ、それもそんなつもりじゃなくて!」

 口を開けば開くほど墓穴を掘っていた。空調は既に着られているというのに背中が熱い。竹中さんは楽しそうに白い歯を覗かせて笑っていたけれど、とうとう声をあげ出した。あはは、というからっとした笑い声が耳にこそばゆい。

「義理ここに極まれり、だね」

 和ませてくれる言葉が居た堪れなかった。それでなくとも竹中さんなんて食べきれないほどチョコレートを貰っているだろうに。もしかして忘れ物ってそれのことなのだろうか。その中に恋人はいたりする? 疲れを反映するかのようにくったりとしたスーツ、緩められたネクタイ。仕事中には見られない竹中さんの姿が私の鼓動を速めていく。この人のこと、もっと知りたい。

「…………あの、じゃあ一緒にご飯でも食べに行きませんか」

 もし恋人がいるのならここでお終いにするつもりで、「お詫びというか……」と付け加えながらそう誘うと竹中さんが笑う。

「俺もそれ、言おうとしてたとこ」

 前から気になってたんだよね。続けられた竹中さんの言葉が都合のいいようにしか聞こえない。もしかすると言わされたのかも、と気付いた頃には竹中さんの猫のような目が私を捕らえて離さないでいた。

20220709 / フライデーナイト