つぐみは部室の扉の前で御幸を待ちながら、やってしまったと肩を落とした。マネージャーになってから天気予報は隈無く確認するようにしていたはずが今日に限って部活終了後の天気のことを忘れていたのだ。
 夜から明日の朝にかけて雨が降るでしょう。贔屓にしている番組のお天気キャスターの声を思い返す。ちゃんと教えてくれていたというのに。
 
 反省しているつぐみの耳に、砂を踏みしめる音が届く。反射的に顔を上げると御幸の姿が目に入った。長袖のジャージを肘まで捲っているのはじっとりと重い空気が不快だからだろう。雨が鬱陶しいのはつぐみもそうで、湿気を帯びたせいで重くなるブレザーとブローが無意味と化した前髪が恨めしかった。
 せめてと手ぐしで髪を整えていたつぐみが、あれ? と御幸の姿に疑問を抱く。あるべきものがない。取ってくると言った割には、御幸の手にはつぐみ用の傘がないのだ。あるのは御幸が今差しているそれだけ。

「あれ、一本?」
「これしかなかった」
「無かったって……」
「木村に借りようと思ったんだけど捕まらなかったんだよ。奥村は傘失くしたって」
「失くし……って、大丈夫なの」
「パクられたんだろ、ボーッとしてたらすぐやられるんだよな」
「どんな治安なの、それ」
「男所帯なんてそんなもんだよ」

 つぐみの家は青道に近く、よく部員と同じように遅くまで残ってはやれ部誌やらやれ会計計算やらと仕事をすることが日常となっている。
 今日だってそうで、夏大を前にじめっとした空気を一掃したくて部室の整理をしていたらすっかりいつもの帰宅時間を越えていた。おまけにこの雨だ。どうしよう、と傘を忘れたつぐみが途方に暮れていたところに現れたのが御幸だった。そして冒頭に至る。
 これ以上付き合わせるわけにはいかない。そう心に決めたつぐみがじゃあ、と手を差し出しかけると、御幸はさも当然のように「入らねーの」と宣ったから驚く。

「いやいいって! やっぱ一人で帰るよ!」
「そのやりとりもう終わったろ」

 早く、と御幸が顎だけで促した。
 そのいつもと何ら変わらない表情にたった数分前の会話を思い出してつぐみは眉根を寄せた。濡れて帰らせたくない、と珍しくはっきり口にした御幸の優しさが、甘く響くばかりでうまく咀嚼できないでいる。
 つぐみは数秒迷って、その末に御幸と同じ傘に入るべく足を踏み出した。大体、御幸が相合傘なんて単語を知ってるはずないのだからと。
 
 
「絶対こっちに傾けないでよね」
「なんで」
「西東京が誇る強肩を冷やすなんて責任取れないよ」
「そんなヤワじゃねえよ」
「わたしもそんなヤワじゃないです」
「ふーん……」

 御幸とつぐみは、付き合ってしばらく経つ。二人になるのは初めてでもなければ、こうして駅までの帰り道を送って貰ったことだって何度もある。なのに、今日のつぐみは戸惑いを感じていた。そしてそんな自分にも困惑していた。
 傘のおかげで距離が近いから? それとも雨のせいで暗がりだから? 平常心を保つために、せめて甘い雰囲気にはするまいと努めていつも通りの会話の応酬を意識していたはずが、ふいに御幸の顔が近付いてくる。唇と唇が触れ合う、そのすんでのところでなんとかつぐみは後ろに仰け反った。転げまいと出た足が水を跳ねてぱしゃりと音を立てる。

「な、な、……なにするの!」
「隙だらけだったから」

 ひとり分の傘からはみ出たつぐみの手を御幸が引く。再び安全圏へと戻ったようで、名前にとってはまったくそうではなかった。

「……何、嫌?」

 拗ねたように唇を尖らせた、御幸の子供のような表情につぐみはぼっと顔から火が出そうになる。キス、したいってこと……だよね……。無意識に自分の唇をきゅうと噛み締めた。

「でも、帰り道だし誰かいるかもしれないし、」
「いねーよ」

 いたとしても、御幸は続ける。

「コレがあんだから大丈夫だろ」

 そう言ってひょいと傘を持つ手を動かした。
 恋人として御幸が見せる顔に、つぐみは何度だって新鮮に驚かされる。御幸の矢印はいつだって野球に向いていて、それでよかったし邪魔をする気なんてなかった。だから、御幸に好きだと言われたのも未だに夢のような気持ちでいるし、どこか片想いのままの心持ちでいて、ふいに自分に対して向けられる好意に気付かされると途端に狼狽えてしまうのだ。

「御幸のスイッチがわかんない…………」
「スイッチ?」
「こっちの話」

 一体いつからそんなこと考えてたんだろう。部活をしている時とはまるで違う姿な戸惑う。
 最初から、こうして近付きたくて誘ってくれたんだったら……。なんてのんきだったんだろう。あまりにも浅はかだったとつぐみは反省しながら、でも。と頭の中で反論する。御幸はそういう人じゃない。
 小細工より真っ向勝負を望むタイプだし、送るのだって傘だってきっと優しさから提案してくれたはずだ。彼女という存在に対する純粋な好意で。
 つくづく、自分は部活モードをオフにするのが苦手だとつぐみは思う。つぐみ以上に私生活が野球一辺倒な御幸も同じと思っていたはずが、それは幻想だと打ち砕かれた気分だ。

「……ほんとに誰もいない?」

 きょろ、とつぐみが周りを見渡しながら囁くように尋ねる。
 普段、寮で過ごしている御幸とはそう長く一緒に居られない。少しでも恋人らしいことをするなら、今は絶好のチャンスともいえた。それに触れたくないわけじゃない。むしろそう願っていいのなら、いつだってその熱を感じてみたかった。

「いねーから、」

 つぐみの問いかけに包んだイエスに、御幸は焦れったいとばかりに答えて手首を引いた。並んで歩いている時とは嘘のように六五センチの傘はふたりをぴったりと覆う。
 
 ――次の日。朝から雨が振る中、傘を差している奥村を見かけたつぐみは思わず御幸を睨み付けたのだった。

20220626 / ヤドリギの下のこと