その頃の私の悩みといったら飼い始めた白猫のミィが家族の中でどうも私にだけ抱っこさせてくれないといった程度だったから、初めて愁を見た時に同じ子供なのにどうしてそんなに寂しそうな目をしているのだろうと不思議に思ったのをよく覚えている。

「……つぐみ、手」
「あ。ごめん」

 ふいに名前を呼ばれて思考が上昇する。
 顔を上げるとその拍子に握っていたシャーペンが手から離れてしまった。転がった先の私のノートには申し訳程度に英文がひとつ書かれている。その亀のような進行度に、隣に座る愁が苦笑いをした。
 そもそも、テストが近いからと桐先に通う愁に泣きついたのが間違いだったのだ。
 愁の部屋にふたりきり。よく考えなくてもわかる、これじゃ集中なんてできっこない。私の通うギリギリ進学校でもこれ以上成績が落ちるとまずいというのに。
 勉強会を始めてから愁の視線は目の前のノートと教科書にしか注がれていなかったはずが、盗み見はとっくにバレていたらしい。バツの悪さに思わず姿勢を正すと愁はふ、と頬を緩ませた。

「疲れているなら休憩しようか。お茶を持って来よう、つぐみの気に入りそうな茶葉があるんだ」
「わ、そんなお構いなく!」
「つぐみを甘やかすのは俺の趣味みたいなものだから。少し待ってて」

 私の遠慮をやわらかく制して、愁はすぐ部屋を後にする。重そうな扉が閉まる音と同時に私はふーっと大きく息を吐きながら伸ばした背筋を緩ませた。
 ……どうしてあんなに自然でいられるんだろう。
 隣並んで座っていたデスクに突っ伏す。鏡になりそうなほどピカピカのデスクに火照った頬を押し付けるとひやりとして気持ちが良かった。
 愁と私は所謂幼なじみだ。
 飼い猫であるミィが藤原家のお屋敷に迷い込んでからの付き合いだから、かれこれ一〇年にはなるだろうか。その関係が恋人になって早一ヶ月。正直なところ私はまだどう振る舞うべきか、わからないでいる。目をつぶったってなんにもぶつからずにベッドまで行けるくらい通った愁の部屋も今はただ緊張の理由のひとつにしかならないのだった。

「お待たせ。ミルクティーにしたけど良かったかな」
「あ、ありがとう」

 部屋に戻った愁からカップを受け取り、隣合って紅茶に口を付ける。私の好みを考えてくれたという紅茶は匂いから甘くて愁みたいだと思った。
 愁はずっと優しかったけど、私達が恋人同士になってからは好きという気持ちが上乗せされてもっとずっと優しくなった。かけてくれる言葉とか、向けてくれる眼差しだとか、そういうひとつひとつを意識すると心臓がぎゅっと掴まれたみたいにくるしくなる。嬉しいのは本当なのに。

「しゅ、愁の高校は難しそうなことしてるね」

 きっと苦し紛れに教科書を指差したのにも愁には気付かれているだろう。沈黙なんて昔は意識したことすらなかった。だけど今は会話が途切れると愁の視線が気になって仕方ない。

「そうかな。つぐみの学校は…………楽しそうだね」
「? ……ぎゃっ! これはあの違くて」

 話題の選択を間違えた。
 愁の指す指の先、私のノートには間の抜けた顔の猫の落書きが幾つか描かれている。私だけが描いたのではなく、グループ学習の合間に班の子と盛り上がった末の落書きなのだと説明するも言い訳が苦しい。

「グループ学習」
「愁のところはあんまりしない? 私の高校だと英語の時間に絵しりとりとかよくやるんだ。これは私が描いたミィで、これは私の絵があまりにも下手すぎて隣の席の子が描いてくれたミィなんだけど、上手だよね。美術部の男の子で」

 へえ、と愁が相槌を打つ。

「俺もミィに会いたいな。久しぶりに」
「あ、だったら今度はウチで勉強会しようよ! 藤原家と比べたら一般家庭だけど……ミィも喜ぶよ、私より愁に懐いてるし」

 愁が笑っている。のに、その表情にはどこか翳りがみえる。ふと初めて会った時の愁を思い出した。寂しそうな瞳をしていた、あの頃の愁の表情。

「……つぐみと同じ学校だったら楽しかっただろうな」

 愁、寂しい? どうして?
 きっと前髪が邪魔なんだ。愁の顔がよく見えない。思うがまま、愁のウェーブがかった髪に手を伸ばす。

「つぐみ」

 あと少し、指先が触れるかどうかのところで愁が私の手を掴んでそれを制した。紫の瞳が私を射抜く。

「不用意に触れちゃダメだよ」

 ――こうやってすぐ捕まってしまうから。
 そう言って、愁が私の指先と自分の指先を絡ませていく。突然の体温に心臓が跳ねる。う、わ。顔に熱が集まるのがわかった。

「だ、大丈夫! 大丈夫だから!」
「どうだろう、つぐみは不用心だから」

 愁の指にされるがままになる自分の手から目が離せない。
 切り揃えられた爪は決して私を傷付けることがなかった。優しく握られたかと思うと愛おしむみたいに指の腹で撫でらる。時々、弓道のせいか固くなった皮膚が擦れてこそばゆい。

「そっ、そんなことない! から、」

 こんなの心臓がもたないよ。
 恥ずかしさを誤魔化すように声をあげると、伺うように顔を傾けた愁とばっちり目が合った。

「本当に?」

 顔が傾けられて、唇が近付く。
 う、うわあ。これってもしかしてキス!? まだ片手で数える程しかしてないそれを受け入れるように、思わず固く瞼を閉じる。

「ほら、すぐに受け入れようとする」

 ……のに、いくら待っても思った感触はなかった。
 不思議に思ってそっと目を開けると愁はすっかり私と距離を取り、複雑なほど絡められていた手も離してからくしゃと乱雑に自分の前髪を片手で握った。

「……ごめん。片付けてくる」

 愁は優しい。
 それは、付き合う前も付き合ってからもずっとだ。
 だから、こんな風に強引な愁は珍しかった。というよりほとんど見た事がない。私が慣れていないことをわかっていつも歩幅を合わせてくれるから。
 愁が寂しそうな顔をした理由、強引になる理由。会話の欠片を思い出すように頭を働かせる。学校が違って寂しい? でもそんなの今更だ。そのほか、他に愁が気に触りそうなことって――……
 ふと思い出してサァッと身体から血の気が引く。そうだ、ぽろっと隣の席が男の子だとかなんだか零しちゃった気がする。
 もしかしてそれを気にして?
 たまらなくなって、立ち上がりかけたその背中に抱きついた。わ、と愁がバランスを崩してその場に崩れたのをいいことに馬乗りになって愁に告げる。

「愁だけだよ!」

 この頃はあんまり昔みたいに寂しそうな目をすることが少なくなったから勘違いしてた。
 忘れちゃいけなかった。愁が寂しがりだってこと。
 その目が気になって、いつも笑わせたかったこと。
 愁に笑ってほしい。
 私はずっとそれだけだ。愁だけ。世界中に誰がいても愁だけが私の理由なのに。

「違う学校にいてもなんでも、私には愁だけだよ! 触っていいのも、触りたいのも愁だけだから!」

 一息にそう言うと愁は目をまん丸くして、ぱちぱちと二三度瞬きを繰り返した。そしてふはっと噴き出す。

「わ、笑うようなこと言ってないつもりなんだけど!」
「そういう所だよ」
「え?」

 馬乗りになったせいで流れた髪が愁の手によって私の耳に掛けられた。

「わかってないなあ」

 その瞳にはもう寂しそうな色は浮かんでいない。ほっとしたのと同時に私の頭が状況を整理し出す。
 愁の部屋、二人きり。私達は恋人同士で、今の私は愁を押し倒した形になっていて……、

「不用心だって言っただろ」

 途端に早鐘を打ち始めた私の心臓なんて構いなく、愁は私の髪に触れていた手を止めたかと思うとそのまま顔を引き寄せた。
 為す術もないとはこのことで、観念して目を閉じる。その寸前見えた、いたずらっぽい満足そうな微笑みは寂しさなんか追い出した紛れもないただの十七歳の顔をしていた。

20230226 / 寒がりの心臓