皆でお花見がしたいです、という沙絵ちゃんの朗らかな提案に愁と私は顔を見合せて頷いた。他でもないお姫様のお願いだ。叶えないわけにいかない。
朝から藤原家を訪れるなんて、一体何年ぶりだろうか。
鞄を持つ手の力を強める。
幼稚園児から小学生まではそれこそ平日から週末まで藤原家を訪ねていたけれど、愁が桐先中に進学してからは放課後に顔を見に寄るだけのことが多くなった。
だから、朝からここに来るのも庭の桜を見るのもなんだか昔に戻ったみたいで懐かしい。
庭園に続く桜並木に、流石藤原家だと感嘆の声が漏れる。庭師さんが欠かさず手入れしているのだろう。桜は計算し尽くされたかのように立派に咲き誇っていた。
「つぐみちゃん! おはようございます!」
少し遠くで愁に麦わら帽子を被せてもらっていた紗絵ちゃんが、私に気付いたのか大きく手を上げる。桜の下には既にアンティーク調のテーブルと椅子が運ばれており、ティーパーティーの準備はばっちりといった様子だ。
「つぐみ、来てくれてありがとう。荷物持つよ」
「ありがとう。……す、すごいね、ケーキの量。バイキング出来そう」
「紗絵が楽しみにしていたからね。俺も準備に駆り出されたんだ」
「このテーブルクロスは紗絵と兄様で用意したんです!」
「そうなの? かわいいと思った」
「沙絵のお眼鏡にかなう布を探すのは骨が折れたよ」
私から荷物を預かった愁が、話しながら東条さんに準備を促す。幼い頃からそうだったとはいえ、愁の流れるような仕草は年々様になっていくように思う。
私はどうだろう。この場に相応しい笑い方ができているだろうか。
□
「沙絵、ほらまた落ちてくるよ」
「よいしょっ! ……む、難しいです……」
食事もそこそこに、「桜の花びらが落ちる前に掴めたら願いが叶うんだって」という私の雑談を発端に私たちは花びらを誰が一番早く掴めるか競うことになった。
一生懸命ジャンプする沙絵ちゃんの隣で、愁は楽しそうに目を細めている。私も手を伸ばしてみるけれど、意志を持たない指は何の成果も得られなかった。
「あっ」
ふいに風が強く吹いた。沙絵ちゃんの帽子が宙を舞う。咄嗟に反応するも間に合わず、麦わら帽子がよく整理された庭の通り道を転がっていった。
「……私、取ってくるね! みんなは待ってて」
返事も聞かずに走り出して追いかける。せっかくのお花見だ。雰囲気が壊れるようなことはあってはならなかった。
地面に落ちてしまった帽子を掴み、砂を払うついでに足を止めると遠目に愁と沙絵ちゃん、それから東条さんの姿が見えた。
なんて絵になるんだろう。桜の木の下がよく似合う。この先もずっと春の柔らかい光に照らされて歩くべき人たち。
――……でも、私は?
来年の春、私も変わらずあそこに居られる?
「つぐみ」
眩しさに目を細めていたら、ふと名前が呼ばれる。顔を上げると愁が駆け寄ってきていた。
「愁」
「なかなか帰ってこないから転んだのかと思った」
「ごめん。あんまり綺麗に咲いてたからつい足を止めて見ちゃってた。散っちゃうの、もったいないなあと思って」
「……来年も咲くよ」
愁は何かを察したかのか、まるで幼い子供に言い聞かせるみたいな穏やかな声で答える。
最近、愁の纏う雰囲気がぐっと優しくなった。背も伸びたし、これからどんどん大人に、この家を背負って然るべき人間になるはずだ。
だから、私はここに来ちゃいけないのに。
場違いだと気付いたのはいつだったっけ。本来なら愁と私の世界は交わるはずがない。出会ったのは偶然で、だけどその偶然を高校生になった今も手放すことが出来ないでいる。
季節が過ぎていくのがこわくなったのも、桜が咲いたり、クリスマスを迎えたり、時が過ぎていくことを実感するのをいつの間にか避けるようになったのも、いつまでもこのままじゃいられないとわかったからだ。
きっといつか愁は藤原家に相応しい人間を選ぶ。
そしてそれは私じゃない。
そんなこと、わかっているのに思えば思うほど離れられなくて、愁に会いたくなって、好きだという気持ちばかり膨らんでしまう。
何も言えないでいると、視界の片隅で愁がおもむろに腕を伸ばした。そして指先をゆっくりと握ったかと思うと、「つぐみ」と手のひらに乗った薄桃の花びらを私に差し出す。
「これ、まだ地面に落ちてないから」
「いいの?」
驚いて瞬きを繰り返して、窺うように顔を覗き込めば愁が微笑んだ。
「気を遣わなくていいよ。俺は……ホラ」
愁はひょいと花びらをもうひとつ掴んでみせる。
「あっ、ずるい!」
「つぐみより背も手も大きいぶん有利なのかもしれないな」
「どうして沙絵ちゃんに取ってあげないの?」
「沙絵は自分で取りたいんだよ。でもつぐみはそうに見えなかったから」
願い事をするのは苦手? と愁が続ける。答えに詰まって、唇を結んだ。
「……愁は? もし、願いが叶うなら愁は何をお願いする?」
弓道のことを願ってくれればいいと思った。愁の頭が弓道のことやおうちのこと、それから勉強だとかそういう、難しいことでいっぱいになって、私のことを忘れてくれればいい。そうじゃないと、いつまでもそれに甘えて私は愁に会いたくなってしまう。ここに来ることを許されていると勘違いしたままになってしまう。
少し間をおいて、愁が口を開いた。
「……つぐみの願いが叶いますように。かな」
予想だにしない言葉には咄嗟に、答えることが出来なかった。顔を上げると視線が混じり合う。
「……それじゃ愁が困っちゃうよ」
「困らないよ」
「どうして」
「つぐみに笑って欲しいから。俺はずっと、それだけだよ」
そんな風に言わないで。そんな優しい顔を私に向けないで。瞳が潤んで、だけどなんとか混み上がるものを零すのは堪えた。
絞り出すように戻ろう、と口に出して歩き出すとふと私の手と愁の手が触れた。かと思うとそのままそっと握られてしまった。
「つぐみがよければ、来年も見に来て欲しい。来年でも再来年でも、ナマエが来たい時に俺を理由にして会いに来て」
愁の指が私の手を包む。
好きだと言えば、同じ言葉を返してくれるような気がした。ずっと一緒にいたいと願えばなんとしてでも叶えてくれるだろう。そんなの、知ってる。知ってるけど、それを願ったらこのおうちはどうなるの。
このままでいたいよ。
大人になんてなりたくない。子供のような願いを、それが言えない臆病を、なのに振り払えない私の弱さを全部わかってるのか愁はそれでもいいと伝えるみたいに握っている手の力を強めた。
20230410 / 忘れじの行く末までは難ければ