微睡みはとうに去っていた。このところ、夢かうつつかわからない状態が続いているのはきっとよくない兆候なのだろう。けれど、体が病に蝕まれる前も眠りにつくかつかないかいつもその縁をさ迷っていたものだから変わらないといえば変わらない。どれだけ身体が重くなろうが、頭脳さえあればまだ俺に生きる意味はある。

 雨が激しさを増したせいで、土の匂いがよく立った。香りは記憶とよく繋がっているらしい。今日のような日は、遠い昔を思い起こさせる。
 思えば、ずいぶん遠くまで来てしまった。

「ねえ官兵衛殿」

 狸寝入りなんかはとっくにばれてしまっているから、話しかけるのに躊躇はなかった。寝返りを打ち直して声をかけると官兵衛殿が呆れた声で返事をする。

「なんだ」

 それでも無視はしないのが彼の優しいところでもあり、弱点でもある。眠っていろと言わんばかりの声色には気づかないふりをすることにした。
 崩れた天気にもかかわらず、今日は体の調子が良かったからまだ少し話していたかったし、それに、自分には残された時間が少ない。
 あと何度、こうして過ごすことができるだろう。
 みんなは優しいから隠してくれるけど戦に出れば出るだけ、身体に無理を強いれば強いるだけ命の灯火が揺らぐのを俺はもう知っている。頼りない炎は明かりがわりにもならず、暖をとるためにも役立たず、ただあとは燃え尽きるのを待つばかりだろう。

「……軍師、向いてないなあって思ったことある?」

 官兵衛殿は、俺の問いかけに元々寄ってる眉をさらに寄せた。彼を誤解している人なら機嫌を損ねてしまったかと萎縮してしまいそうなほど威圧感のある表情だけれど、そうじゃあない。質問の意図を測りかねてるんだろう。そうならそうで、不思議そうにきょとんとでもしてくれれば可愛げもあるし、周りともやりやすくなりそうなんだけどなあ。泰平を望んでるくせに、官兵衛殿ってばそういう生きやすさだとか処世術にはまったく興味がないのだ。
 先が思いやられるよ。つい口にしそうになりつつも、そうやって未来のことを他人事のように言うとそれこそ不機嫌になってしまうので俺は唇を結んで答えを待った。

「愚問。そのような生半可な人間は秀吉様の下で泰平を望める資格もない」
「うん、まあそうだよね。普通に考えればこのまま信長は天下を取るだろうし、秀吉様はそれを信じてる。俺達だけが秀吉様にその餅を横取りさせようとしてるんだけど、もし秀吉様がそれを聞いたらきっと喉を詰まらせちゃうだろうしね」
「質問の意図はなんだ」

 俺の冗談はすっかり無視されてしまった。別に勿体ぶるつもりなんてなかったけど、言いにくいのは事実だったから、誤魔化すように頭の後ろを掻く。

「つぐみは、」

 口にした名前に、官兵衛殿がピクリと反応した。

「……つぐみはさ、向いてないんじゃないかって思うんだよね。軍師。……っていうか、戦全般?」
「猫のように拾うからだ」
「拾ったんじゃないよ、着いてきたんだもん」
「情を見せるからそうなる。あれが戦に向いていないのは卿であれば最初からわかっていたはずだ」
「だから叩き込んだつもりなんだけど。生きるためにね」

 出会ったのもこんな雨の日だった。そのせいでやけに心配してしまうのだろうか。記憶の中でつぐみはいつも瞳に涙の膜を張っている。戦火に燃える城下でひとり泣いていた頃から少しも変わらない。
 孤児だなんて珍しくもなんともないのにどうして放っておけなかったのだろう。まだ自分の命に陰りがつき始めたことなんて気付きもせず、ただただ罪滅ぼしみたいな気持ちで陣にいたからだろうか。それか、鉄砲を使った戦に胸中を乱されてしまったからかもしれない。

「参ったよね、二兵衛のいちばん近くにいておきながら、未来なんて考えたことないですー、なんてさ。一体これからどうするつもりなんだか」

 つぐみとの会話の端を引っ張り出しておどけると、官兵衛殿が今度こそ不機嫌そうに口を歪めた。とはいえ、触れざるも得ない。官兵衛殿にだけは、この話をしておかなくてはいけないのだから。
 託すなら官兵衛殿しかいなかった。それ以外の選択肢なんてなかった。俺の志を、夢を、紡ぐなら。背負わせるのは趣味じゃないけど、官兵衛殿はきっと言わなくたってそうするつもりだろうし。だったら言っておいた方が、誤解も少ないだろう?

「つぐみはきっと役に立つ。軍師に向いてはいないかもしれないけど、教えられることは教えてきたつもり。素直だし、諦めも悪い。機転もきくし、勤勉。腕っぷしも今の俺よりは強いかもね」
「くだらん」
「悪い話じゃないはずだよ、官兵衛殿」
「先を考えていない者などいらぬ。卿のようにあらぬ先を考えすぎている者も厄介だ」
「ありゃ」

 たったのひと言で俺の提案を断った官兵衛殿は、部屋の隅に揺らめく蝋燭に視線を注ぐ。

「……向いていないとわかっているのなら、せめて手放してやらぬのが償いだろう」

 その言葉は、まるで祈りのように聞こえた。口では最もらしい事を言いながら離れ難いと足掻く俺への励ましのようでもあった。見透かされているのがどうにも心地悪くて、小さくうん、と応えると、丁度廊下から足音が聞こえた。つぐみのものだ。
 子供のように頼りない足で、俺にかける布団を一生懸命に運んでくる君は、いつかくる別れになんて耐えられるはずもないだろう。泣くかなあ。泣いちゃうだろうな。涙に濡れたみたいなつぐみの目は夜空みたいで好きだった。でも、本当に泣かれるのはいやだなあ。手ぬぐいを渡してやれたらよかったけど、その役目はもう俺じゃない。
 きっとしあわせでありますように。いつか雨が止んだら、また会おうね。願うことしかもうできないけれど。

20211025/ となりには帰れない
(bouquet再録)