前ばかりを向いていたから、隣を見やる余裕などなかった。同じ道を歩んでいると思っていたのに、気付いた頃にはもう遅い。歩幅の違いを知ったとて、立ち止まってやる事も後戻りをする事も俺には許されなかった。ただ追いつかれるのを待っていた。迷い子になっていたのも知らずに。

「俺が怖いか」

 薄氷の上にいるかのような沈黙を解いたのは俺の方だった。顔を近付けたままそう問えば、つぐみの瞳が揺れる。今にも泣き出しそうな表情に苛立ちが募った。
 いつからお前はそんな風になった? 言葉に出さず顔に出したかと思えば今度は隠れようとする。一体これで何度目だ。突き放すように距離を取るとつぐみが小さく「あっ」と声をあげるのと同時に、揺れた髪から雫が跳ねて俺の頬にかかる。思わず眉根を寄せると、つぐみはそれすら敏感に感じ取って居た堪れなさそうに肩をすくめた。

「部屋に入って行けばいい」

 夕立かと思われた雨はしばらく収まりそうもなかった。つぐみは、逃げ出したいような顔をしている割にはその場に固まったままで、いつまでもじっと動かずにいる。まるで途方に暮れた迷い子のようだった。吉継や左近ならば茶を用意するだろう。清正や正則は身体を暖めろと優しい言葉をかけてやれるのかもしれない。けれど、俺はそのどれにもなれなかった。ただ、己のままならなさに頬が歪む。

「……部屋になど……昔は気にもせず入っていただろう」

 随分と遠い昔、秀吉様に拾われた頃の俺達は無邪気なものだった。ただ一心にお役に立ちたいと、幼さに歯痒さを感じるだけでよかった。ようやく秀吉様の横に馬を並べられるようになったかと思えば、当然のように隣に立っていると思っていた相手は手網を引く手を止めようとしている。そんなことが許されるはずもなかった。誰が許したとしても、俺は、俺だけはそれを許さないし、見逃してやるつもりもない。

「秀吉様の世が来てもお前はそんな顔をしているつもりか」

 剣になると知っていて、俺はその単語を口にする。秀吉様と聞いたつぐみはひどく傷付いた顔をして眉根を寄せた。

「秀吉様の話を出すのはずるい」

 震えた声が雨音の隙間を縫って俺の耳に届く。
 いつからだろう。お前がそんな風な態度をとるようになったのは。そして、俺がこうなったのは。もうずっと、つぐみの張り詰めたような表情しか見ていない。あの頃と変わらぬ笑顔は、俺以外に向けられた。
 それでも、絡まりきった糸を離してやる気はなかった。

「……俺にはお前を笑わせる術がわからん」

 酷いことなど、とうにわかっている。何の遠慮もなく隣にいることが、どれほど難しいことなのかも。永遠に子供のままではいられるはずがない。道を分かつことなど、あって当然の話だ。

「だが、」

 それでも、俺の望む世にはつぐみがいるのだった。

「手放すにはどうにも難しい」

 我ながら、絞り出したような声だ。情けない。つぐみがはっと息を呑む。
 これでは、俺の方が子供だ。迷い子はどちらだと拳を握り込むと思ったより力が入った。

「……似合わない事を言いますね」
「似合う似合わんを決めるのは受け取り手の勝手だろう」

 ふん、と鼻を鳴らすとつぐみが纏う空気を柔らかくさせて「少し誤解していたのかもしれません」と呟く。

「私達、もっと距離がついたものだと思っていました」
「距離などついたはずがあるか。現に俺はここにいる」
「うん……、そうかもしれません」

 手拭いを持つつぐみの手からは緊張が失われていた。その仕草に、俺達の間をややこしくさせていた何か些細なもの――それこそ喉に刺さった小骨のようなもの――がとれたのだとわかった。
 と、ふいにつぐみがくしゃみを鳴らした。思わず手を伸ばし手拭いを奪って濡れたままの髪を乱暴に撫で付ける。

「くだらない立ち話のせいで風邪をひかれてはかなわん。最近の吉継はうるさいのだ」
「吉継様が?」
「ああ。あれでお前には過保護だからな」
「まさか。いつも何か言いたげにしておられますよ」
「たまには聞いてやると喜ぶ。こちらの耳に痛い話しかせんがな」

 久しぶりに触れたつぐみは記憶より随分小さかった。昔は視線を同じくしていたはずで、俺の頭の中では今でもそうだった。

「こうしていると昔のようです」

 手拭いの下でつぐみは微笑む。知らない事が随分と増えていた。柔らかく弧を描く唇や、背丈に差がついたことなど、話の上や見ているばかりではやはり、わからないことが多すぎる。

「……もう少しここにいていいですか」
「好きにするといい」

 雨音はいつの間にか激しさを抑え、庭の緑が露を蓄えて生き生きとしていた。俺の返事につぐみが目を細める、その顔が眩しい。

20221025 / 宵闇獣道
(bouquet再録)